そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか頭が下がってて、ごちそうさま、とか言ってるんです。
お前らな、150円引き如きで普段目も合わせない店員に感謝してんじゃねーよ、ボケが。
150円だよ、150円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな。
よーしパパ食べ終わっちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその席空けろと。
Uの字テーブルの内側に立った店員といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。所得の低い奴は、すっこんでろ。
で、やっと食べ終えて無言で席を立ったら、隣の奴が、礼儀知らず、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、ごちそうさまなんて本来不必要な礼儀正しさなんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、ごちそうさま、だ。
お前は本当に料理に感謝したのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、ごちそうさまって言いたいだけちゃうんかと。
吉野家通の俺から言わせてもらえば今、吉野家通の間での最新流行はやっぱり、
食い逃げ、これだね。
食べ終わったら無言で逃げる。これが通の去り方。
食い逃げってのはねぎを多めに食べる。そん代わり金を払わない。これ。
で、そのあと全速力で疾走。これ最強。
つーか、平和憲法を制定したのはアメリカを日本を非軍事化して富国強兵前の小国に戻すためで、アメリカとしては東アジアの戦後秩序は米中二国でしきっていくつもりだったんだよ。
ところが国共内戦の結果、中国で共産革命が起きるわ、それ見て北朝鮮が南進するわで計画が破たんしてしまった。
そこで、軍事独裁政権の韓国と日本を東アジアの反響の砦にするために、東京裁判受諾を条件にサンフランシスコ講和と日米安保体制に日本を引き入れた。
植民地時代の清算が終わってない韓国と大東亜戦争への反省が終わってない日本が反共のために強引に手を組まされたわけで、これが冷戦終結後の歴史問題の淵源になっている。
そりゃ、反共で覆い隠してきた矛盾だから冷戦が終われば焦点化するわな。
で、東アジアの冷戦史の中で北朝鮮と対峙している韓国がまず朝鮮半島で戦い、次いで、海外派兵(ベトナム)まで行ったように前線として戦ってきた。
日本はその時は平和憲法を口実にして出兵はできなかった。たぶんアメリカも日本を本格的に再軍備化するには不安があったんだろうし、日本にとっても戦後の復興期に戦争に巻き込まれないためには都合が良かった。
遠回りしたけど、結論を言うと、現実の歴史におけるアメリカの東アジア戦略の中では平和憲法と日米安保ってワンセットだったわけだ(びんのふたってやつな)。
もし、日米安保の時に平和憲法も変えていたら、アメリカも日本を戦力として使うだろうし、朝鮮戦争やベトナム戦争の舞台が日本列島であってもおかしくなかっただろうなー。
よく分かる事例だな。
増田民の知恵を結集して、「軍事優先で」「国家統制経済で」「中国とアメリカに喧嘩を売る」国でいいじゃん
きっと地上の楽園だーよ?
もうさ、なんか考えるのめんどくさい
(何も気にせず残れるようなら、そんなこときっぱり言える)
そんなこと自分で何とかできないようなレベルの人間が次に簡単に職を探せるとは思わないし、
そして、そんなどこにでも書いてあるようなこと、増田に書き込む人間がみつけられないわけないとおもいまーす
ここにもそんなこと糞余るほどかいてありまーす
むだでーす
親切心きもいでーす
「ぼくはおさけがのめないのにじょうしやせんぱいがのませてくるあるはらだー」マンが居るのだろうか?
しつこいようでしたら、「飲み会への参加、飲酒を強要することは、パワハラです。弁護士に相談させていただきます。」と答えてください。
今の段階で、相談しみてるのも、いいでしょう。
場合によっては、弁護士さんから、飲み会の参加を強要するのなら、訴えますよって内容証明郵便を出して、もらうのがいいでしょうね。
俺の(元)先輩も似たようなもんだったよ。
俺の場合、忘年会で先輩の隣に座って言われるがままに呑まされて、気分が悪くなったので…とトイレ行くふりをして立ち上がった瞬間を狙って先輩に背中にゲロ吐いた。
当然先輩は激怒したが、先輩と同レベルでアルハラに無理解な周囲が「ほーら言わんこっちゃないwww」的な反応をしたおかげで、激怒する先輩の方が人間的に小さい、後輩のゲロを受け止めるのも先輩の仕事のうちだ、という事で収まった。
で、数ヶ月後の飲み会では先輩の膝の上に吐いたので、それ以後俺だけは参加を無理強いされる事はなくなった。
平和憲法がなかったら、朝鮮戦争やベトナム戦争のようなアジアの「冷戦」(正しく熱戦と言うべきだが)は日本列島を舞台にしてたと思うぞ。
私が長文を書くのも自由だし、
読みたくないなら読まない自由もある。
ただ私には、「あなたには読ませない」という自由はないんだ。
ここは「じゆうないんたーねっと」だから
全くだな。たかが千文字にも満たない文章を「平和憲法」とまで持ち上げ、否定しようとすれば、まるで戦時中に「非国民」を批判するがごとく唾を撒き散らして「ナチス」だ何だと煩い左翼こそ、まず己を省みるべきである。
「平和憲法」は、本当に日本に平和をもたらしてくれるのか? 中国の横暴を止められるのか? 憲法を支持している人々は、オスプレイ騒動の時のように、中国へのデモ活動などの具体的な行動しているのか?
さあ、いかが?
少なくとも方向性は決まるだろ
長い。グチャグチャしたこととかどうでもいい。
長い文章で詳細に説明しようと何しようと、よく分からん人間が「低所得者はー」みたいなこと言ったら、お前ナニイッテンの???って突っ込まれる、
ただそれだけの話だろうが。
ごちゃごちゃ解説してる奴らのがより気持ち悪い。
A「原発の電気を享受してきたのに、原発やめろと言うのはおかしい」
B「原発の電気を享受してきたのに、原発続けろと言うのはおかしい」
「牛丼屋で「ごちそうさま」を言うことに関し、えらい誤解を受けている話」というエントリーを帰り際に読んで、牛丼が食べたくなったので数年ぶりに吉野家行ってきた。
このエントリーはもう削除されてしまってるのだが、2chにも転載されたみたいで、現在は「痛いニュース」にもまとめられてる。「ツイートしたら誤読されて炎上した。なんで!?」みたいな趣旨のエントリーだった。
私は件のツイートを読んで、まあどっちの意味にも取れないことはないな、エントリーを読めば趣旨は理解できるし、ちょっと言葉を変えたら伝わっていたかも、程度に考えていた。以下のようなブコメを「そうだよなあ」と思いながら読んでいた、のだが。
私も言葉を選ぶのは得意なほうではないので、この戒めを守ろうと思ったらとてつもない努力を払わないといけないことに気付いた。
誰でも自由に参加できるインターネットの世界では、言葉の発信側と受け手側で、感性や考え方や立場などにもの凄い違いがある場合が多い。ある集団内で通じる言葉やニュアンスが、別の集団では全く違う捉えられ方をしてしまうのはよくあることだ。集団の間の障壁が少ないインターネットの世界では、別の集団に流出した言葉が炎上の発端となるケースが頻繁に見受けられる。自分と別の集団にいる人間が、どのように感じどのように行動するのか、予測するのは容易なことではない。
言った当人にそのつもりがないのに、その言葉に「上から目線」や「悪意」を感じて、執拗に攻撃する人や炎上させようとする人がいる。そんな炎上を予防するには、全世界の皆が悪意に受け取らないように、言葉や文章を慎重に吟味しなければならない。世界中の人の心どころか、同じ日本に住む人でも、年齢が10歳違う人、所得が100万違う人、居住地が違う人、雇用形態が違う人、業界が違う人、学歴が違う人、などを完全に理解するのは不可能なので、言葉の吟味には終わりがない。「炎上」という現象がインターネットに登場して以来、炎上の閾値は下がり続けており、昨今は「○○でごはんをたべた。おいしかった!」という言葉でさえ叩かれるご時世である。炎上耐性のない一般人、言葉選びが下手な人は、もはや何も発言できなくなってしまう。
あるいは(誰かわからない受け手の為に)言葉を選びぬいてネット上に書きこんだとして、それで自分は楽しいのか?書き込むことに喜びを感じられるのか?
要するに、自由なはずだったインターネットが、その自由さゆえに逆に不自由になってきていると感じたのだ。言葉が届いてほしくない人に届いてしまい、悪意は次々と増幅されている。
私はこれまで、冷蔵庫に入ったり、鼻の穴にタバスコをつっこんだりした写真をネット上に掲げる若者に対して、「インターネットは全世界に公開されてるんだから他人が不快に思うものを載せちゃだめだよ」と教えるべきだと考えていたが、実はそれらは今回の事例と本質的には変わりがないのではないか?冷蔵庫に入るのが楽しい人には、冷蔵庫に入るのは不潔でアリエナイと思う人の気持ちは理解できない。他者を観察し分類し傾向をはかるのが楽しい人には、人間を所得や学歴や出身地の違いで分類することが悪だと思っている人の気持ちは理解できない。法律に抵触していない、どちらが絶対悪でどちらが絶対善というわけでもなく、どちらが多数派でどちらが少数派と言い切ることもできない問題で、ただ自分の思っていることを素直に発言した人が、運悪く反対者に見つかって叩かれ炎上し、ショックを受けてインターネットという発言の場から降りていき、場合によっては現実の職場や学校からも追い出されてしまう。そんな「インターネット」が健全さを維持できるだろうか?
最近になって、いくつか「インターネット」や「ウェブ」の終わりを予言する記事を見かけるようになった。現在のように開かれたインターネットは姿を消し、地域や集団やアプリケーションごとに閉じたネットが主流になるというのだ。確かに様々な問題は山積しているし、閉じたネットになればそれらの問題の多くは解決されるかもしれない。すでにLINEという「閉じた」ネットに多くの人が参加しはじめている。歴史がそうだったように、インターネットもおおらかで自由で暴力的な時代を終わり、秩序だって洗練されて窮屈な時代を迎えようとしているのかもしれない。大きな流れを押しとどめることはできない。
若い頃、飲食店で「ごちそうさま」を言う友人がいて、(ごちそうさまって言うと育ちが良さそうに見えるな)と考えた私はそれ以来ずっと「ごちそうさま」と言いたいと思っている。タイミングや何かが合わなくて言えないときも多いし、本質的にはコミュ症で声も小さいので店員さんには聞こえてないかもしれない。が、ともかく今日は言ってみた。「ごちそうさまです。」