2013-06-10

御輿

こないだあるところで祭りがあって、御輿を担いだ。

率直に言ってもう二度とやりたくない。

なぜなら、俺は割を食うと感じてしまたからだ。

あの御輿というシステムは背の高い担ぎ手は割を食い、背の低い担ぎ手は楽をするシステムからだ。

背の低い人はぶら下がって、御輿を下げてでも担ぎ手になろうとする。

ぼくのかんがえたさいこうの御輿にしたいんだ。

これは背の高い人からするとキツい。

これらは背の順にちゃんと担ぐ並びを作ればいいのだろうけれど、指揮する人は居ないし、一番前で目立ちたがる人が何人もいて何人も入れ替わるから機能しなくなるだろう。

小社システムにおける御輿

小さなコミュニティ特に物理的な距離が近くて生活をいくぶん同じくするような人で構成されるそれでは、御輿は非常に良く機能するのではないかと思われる。

なぜなら、割を食う人が、ぶら下がる側が誰々であると明確に認識できるからだ。明確に認識できると、こいつを助けてるのは俺だ、という認識を持てるので支える力を抜こうとは思わなくなる。

そして「俺が盛り上げてやるぜ」という意識が強まるし、知ってる人だから具体的な評価にもつながる可能性を見いだして、これもモチベーションに転化させることができるだろうから

■誰だかわからない他人を支えるということ

今回、俺が担いだ御輿は友人の住む地域御輿なので、一緒に担いでる人の中に知り合いが居ない。

からぶら下がったり、大して担いで無い輩が視界に居たりすると、割食ってる感が強烈になるのでやめたくなる。

割食ってる感による負ベクトルに対抗できるだけののモチベーションに転化するものが無いんだよね。

■広域の社会システムにおける御輿

とすると、生活保護受給者は甘えだとか支えたくないだとかという心理は、こういった評価軸等からモチベーションが得られない事が主な原因なんだと思う。

知らない誰かを助ける気なんて起きないよ。顔も見た事無い人の事情想像する事なんて無理だし。

ただ、子供御輿にぶら下がるのは許容してしまうし、いっぱいぶら下がっとけ、とも思うのよね。

そして全然担ぐ気もなくて遠巻きにはやし立てるだけの老人たちも別になんとも思わない。

子供に関しては全力で支えるべきだと個人的には思うのよ。基本的に自分の子を肩車した状態で御輿も担げよとは思うけどつらかったら組み木に載せてもいいよ、とも思うし。

老人に関してはぶら下がってきたら全力で払いのけるけれど囃し立てるだけなんだし、実際の政治への関わり方もその距離感なら存在を許容できるんだと思うよ。つまり、老人から選挙権剥奪な。納税義務は無くなってもいいか年金も受け取るなよ、ということね。

税金の重みをみんなで平等に担ぐてことはまぁけっこう美しい事なんだろうけど、全力で担ぐにはちょっとモチベーション保てないのでぶら下がる輩は知ってる人同士でどうこうできる小さいコミュニティ内で成立する仕組みが要るんだと思うよ。

国税ではなくて都民税とか区民税とかよりもっと小さい距離で構成されたコミュニティ保護するの。

金持ちが多い区域はセーフティネットも手厚いけれどそう言うところに住むにはそもそものハードルもある、という具合。衰退するところは衰退しきるのでこの辺のGC的なシステムが何か要るんだろうけれど。

いずれにせよもう御輿適当しか担がないから担ぎたい人がやれば良いと思うよ。

  • 「指揮する人は居ない」って、お前さんが指揮すれば良いじゃん。たかが並び順に意見も言えないのに、「社会がどうの」とか、何を言ってるんだ?

    • それ言ったら、全部自分でやれやってことだろ。そういう話じゃないってのが分からない君はアスペって言われないか?

  • 今の社会状況だとすると、背が低い人がぶら下がってる人を批判してる感じだから少し違うような 税金の額的には自分のノルマもこなせてない人が不公平だってわめいてる 自分も気持ち...

  • この社会は老人がぶら下がってるんですが払いのけるとか勇気あるなおまえ

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