アカデミック・スマートの対義語はストリート・スマートということになっている。ストリート・スマートは、答えのない問題を解くことに長けている、とか。
答えのない問題を解くとは、まさにアカデミックだ。
大学で学ぶことは、答えのない問題にどう解くか、ということに始終していた、と思う。理系がなんで実験したり、数式を解いたりするのか、文系がフィールドワークを繰り返したり、古い文献を探しまわったりするのか、といえば、それは答えのない問題を解くためだ。既存の枠を壊すもの、定説を覆すものを見つけだしたい、と願うのはアカデミックだ。
あるのかもよくわからない物質を探すために本当に大規模な実験装置を考案して、製造して、運用して・・・なんてこともアカデミック・スマートはするわけだが、それにはどれぐらいの人とお金がかかっているのだろう。
ストリート・スマートという言葉のでてくる文脈でのアカデミックとは、アカデミックではない。形式やいままでの習慣に固執する、変化を嫌うひとたちの総称として「アカデミック」という言葉が使われている。
それはストリートを自称するひとたちが「アカデミック」にそういう否定的な印象を持っているから、なのかもしれない。自由を信奉するひとたちが、保守を嫌うような。性悪説を好むひとが、性善説を嫌うような。
頭でっかちなんて嫌いだ! と言いたいのにストリート・スマート/アカデミック・スマートという偏見(自分を持ちあげて、だれかを下げるような)に立った対義語をつくるあたり、ストリート・スマートを自称するひとたちは我が強いというか、肉食というか、ナルシストというか・・・少なくとも過激で、攻撃的なひとたちということだろう。