2013-03-26

死ぬか生きるかどうなるか

中学生の頃から、死にたくてしょうがなかった。高校生の頃には電車通学も始めて、いつも電車に飛び込む妄想をしていた。結局飛び込まなかったのは、本当に死ぬ気がなかった証拠かもしれない。でもその時は本当に死にたいと思っていたし、うわあああああってなって電車に飛び込んでもおかしくなかった。うわあああああって叫びながら何処かへ消えてしまいたくなる感覚が頻繁に発作みたいに起こっていて、頭が狂ってしまうと思った。いっそ狂いたいと思った。

この「死にたい」の厄介なところは、正体がわからないところだ。自分はおそらく恵まれている方だと思う。不幸せに思う要素はあまりない。原因がよくわからない以上、心の中ででも責任をなにかに押し付けることはできなかった。でも確かに生きるのが苦しくて、死にたかった。その一方で、生き物なら誰しも持つ生存欲も立派に機能しているか死ぬのも怖かった。むしろ死にたくないという気持ちも人並みかそれ以上にあったかもしれない。毎日死ぬ場面の妄想をしては怖くて目の前がクラクラした。

そんな高校生人生青二才が選んだ回避策は問題を先延ばしにすることだった。「苦しくともとりあえず**歳までは死なないことにしよう、その歳になっても今のまま苦しいのならもう我慢せずに死ねばいい」と考えた。その理由にはもっともらしく理屈をつけたので自分でも納得することができ、今まで死にたいという思いが苦しくとも生きながらえてこれた。また、生存欲の方もしばらくは死なないと安心したのかあまり大暴れしなくなった。

そして今に至る。あと一ヶ月ほどでその年齢になる。果たしてどうかな、とこの一年ぐらい考えていた。高校生の時からほとんど進歩しなかった私の精神は未だに死にたいと言い続けている。死ぬ妄想時間をかけた分だんだん具体的になってきて、もう場所とやり方と時間も決まっている。死ぬ前の身の振りようなんかも考えた。しか時間をかけた分自分大事にするものも増えてしまった。たとえば、恋人とか、親とか、仕事場の人とか。高校生の頃は軽く親を憎んでいたけれど、一人暮らしもながくなった今ではそういうトゲトゲした感情も消えてしまって、「私が死んだら苦しむんだろうなあ」という同情が湧いてくる。恵まれていないわけじゃないから、人並みに幸福もある。要は、死にたい気持ちも死にたくない気持ちも、時間と共に同じだけ増えて、比率は同じままに大きくなってしまったんだろう。

結局どうなるのか、直前になった今でもよくわからない。今の気分は死にたい側に大きく傾いているけど、昨日は生きたい側に大きく傾いていた。その年齢になって死にたい側に大きく傾いてしまったら死んでしまうんだろうか。苦しい、苦しい、苦しい。

他の人たちはこういう中二病をこじらせて死にたい気持ちと生きたい気持ちを変な風に抱えたりしないのだろうか。幼稚な苦しみから逃れるのにはやはり死ぬしかないのかなあ。

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