2012-07-26

震災の日々が楽しかった話。

不謹慎になるけれど、震災の話をしようと思う。

私は震災当時、仙台市内に一人暮らしする大学生だった。

震災の実際の規模感って、なかなか伝わらないものだと思うので、そこから話したい。

仙台市は5つの区が組み合わさった、横長な都市だ。(http://www.mapion.co.jp/map/admi04.html) 太平洋沿いの仙台港から、市のほぼ中心にあたる仙台駅まで平野を西に10キロ。そこから愛子と呼ばれるかなり山深い地域までの西に10キロ、この半径10キロ一円仙台市だ。

最も海岸沿いの数キロ圏は、それこそテレビ報道されたような悲惨な状態だった。ここについては皆さんもよくご存知だと思う。一方で、仙台駅近郊から西にかけては、地がうねるほどの揺れによってそれなりの数の建造物が倒壊したり、危険な状態になってはいものの、津波の影響を受けることもなく、比較的静穏な状態だったと言える。

震災から、私は友人たちと共に、大学サークル室や誰かの部屋に集まって日々を過ごしていた。

水道は翌日朝にはチョロチョロと出るようになり、最大の心配は解決した。電気大学で使えるようになるまで2日、近辺の個人宅で使えるようになるまで4日を要したが、震災の翌日夜には電気が通るようになった仙台駅前のアーケードに皆で出向き、通り沿いの開放されたコンセントに見ず知らずの人たちと井戸端のように集まって携帯を充電していた。

私たちは食料品を買出しに出かけたり、誰かが持ってきたガスコンロで鍋を楽しんだり、買い込んできたお菓子をダラダラと食べたり、炊き出しの噂を聞きつければ行ってお相伴に預かったり、再開したラーメン店に感動したり(近隣の二郎インスパイア野菜オールキャベツになっていた。ある意味貴重な体験だった)。…食べ物の話ばかりになってしまった。電気が通るまでは日がな本を読んだり、トランプをしたり、あるいは電気が通れば、ゆっくりと流れる時間スマブラ桃鉄に興じて。そんな風に過ごしていた。

震災の日々とは私にとって、まさにモラトリアムの象徴とも言える時間だった。

バイト就活試験もなく(春休みではあったが)、あれだけ友人たちと長時間集まって過ごせた日々はもう得られないし、本当に貴重な時間だったと思う。

震災津波で亡くなった方々、ボランティアに積極的に参加した方々を考えれば不謹慎まりない話ではあるが、これを私たちの一つの思い出として書き残しておきたい。

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