2011-09-29

先週、数年前はあったはずの預金がほぼ底をついていた。

先週、数年前はあったはずの預金がほぼ底をついていた。

額にして337円。衝撃過ぎて一度で金額を暗記していた。

給料日を翌週に控えた2011年9月21日関東には台風が来ていたが私の心にはそれを凌駕する嵐が迫っていた。

預金337円。正確には別にある貯金用の口座に十数万円が残るが手はつけまいと、ただそのためだけに作った口座なのでそこにある分は預金とはみなしていない。

会社入社して毎月お金を家に入れていた。給料日。忘れる事もあったが毎週コンビニジャンプを買う。思い出してすぐにATMで引き出して数日以内には入れていた。

3万円。手取り13万の私が自由に使えるのはここから携帯電話の料金を除いた10万円弱。

高校のころにやっていたバイトの月収およそ二倍。大きな買い物もせず順調に、そしていつの間にか、貯蓄はその額を増やしていた。

しか会社に入って一年、情けないことにコミュ障をこじらせてお局様に相当嫌われ、しか幸運が重なり数ヶ月後の異動が決まった。

2009年6月5日金曜日。吐き出す術を知らなかった私が誰にも話すことなく頼ったのは心療内科だった。

軽度の鬱と診断され(もしかしたらそんな病気など無かったのかもしれないが)、異動が決まり少しは環境がマシになること、趣味が充実していること、生きがいを持っていること。そんな諸々が加味されて通院は2009年9月26日、ニヶ月ほどで終了した。

その間に家族に通院がバレ、通院の最後の方には薬の副作用で筋固縮になり仕事に支障が出かけた。しかし新しい環境での仕事はそれなりに順調だったし、ネットで見ていたような断薬症状も無かった。

昔よりはコミュ充に近づいたと思うし、失敗は回収できるんだと思えるようになった。

そこまで生きる間に私が家に入れるお金は5万円に増額した。家にお金が無いのは知っていたから。

臨時で貸した時が何度かあった。その時は、給料日に5万円を入れずに相殺して返済とする。そうやって家計を保っていた。

2009年9月、その頃には大きな額を貸すようになっており、もう毎月のお金は入れずに貸出金から相殺し、そこにまた貸していくそんなやりとりが続いていた。

しかし貸し出す金額は徐々に増え、頻度が増す。数ヶ月に一回だった貸し出しはほぼ毎月になり、7桁を記録しようとしていた私の預金が7桁を記録したのは、いつだったか給料日後の数日だけだった。

7桁が6桁になった事を少し悔しく思ったが困りはしなかった。マンガが買えて服が買える。何も家を買うわけでも車を買おうとしているわけでも、なかったから。

家族を助けるために。その思いで貸し続けた。

そして2011年9月21日。あれから、通院が終わってから2年。7桁弱あった私の預金は3桁になっていた。

最初はただの使いすぎだと思っていた。2年の間にクレジットカードの使い方を覚えネット通販を覚え、ちょっと良い美容室に行くようになりヘアケアスキンケアだってほんの少し値の上がったものに変えてみたりもした。

友達も増えた。だから都心に遊びに行くことだって増えた。お酒を飲む楽しさを知った。

それでもまだ慎ましい範囲だと思っていたのだが。

ささやかでも充実していた。だから気付かなかった。

収入は増えても控除で減っていく。手取りほとんど変わっていない。

それでも、何かを控えればまた貯まると、少しだけ考えた。

から貸出金の履歴を見せてもらうまでの1日だけは。

管理はちゃんとすると言っていた母に貸出金と相殺金の管理を任せていた。小さな手帳に書かれたのは異常な頻度と金額の貸出金の履歴。

近い月にはボーナスの数日後にボーナス額のおよそ半分以上の額を貸していた。

数ヶ月に渡って月手取りの半分以上もしくは同等の額を渡していた。

そこに自分の使った分の引き落としやら何やらが加味されて、これで預金が減らないわけがない。小学生だってわかることだ。

人生ではじめて親に言葉に出来ない苛立ちを覚えた。同時に、仕事半日で強制帰還されたので台風にははじめて感謝した。

言葉に出来ず感情をうまくコントロールできず、数日間家族と対面するのは食事だけだった。

思い返せば高校時代。進路をどうするか決めていた私を呼び出して

「将来就きたい職業があって、そのために進学するのなら何とかして大学へ行かせられる。

 けど、なんとなく進学するのなら、それはできない。」

そう言われた。至極尤もすぎて言葉も出なかった。大学勉強するために行く場所だ。

専門的な知識を仕入れてそれを将来に活かすのが大学。そう認識した言葉だった。

将来の夢も希望も何もかもを諦めていた私は、その言葉を受けて就職した。氷河期氷河期の間、ほんの少しだけ回復の兆しが見られた2007年秋。

高校から近い、学校の中での応募枠さえ取れれば内定が取れると言われていた企業へ、普通に就職が決まった。

一刻はひどい学歴コンプレックスに陥った。しかしそれだって両親にではなく、夢も希望努力を捨て、しかしあの日からやりたい職業すら見つからずに改めて進学に踏み切れない自分を責める感情しかなかった。

今日、一週間考え続けた事を母に問うた。本当に我が家にはお金が無いらしい。

そして父の収入は年々減ってきているらしい。

私は辛い心を抑えながらまるで日常の話をするが如く、もう自由にお金を貸せない事を告げた。

考える。何がいけなかったのか。父や母はこの土地に来てから仕事が減ったと言う。ここは母の実家、祖父の土地だ。

建て替えるときに一緒に住みたいかと問われた幼い私が首を縦に振った、そうやってやってきた土地だ。

身につかない習い事をしたいと言った幼い私がいた。勉強が嫌いだったので教材だって使わなかった。

中学の時いわゆる"弄り"と"いじめ"の間に晒されて学校行きたくないわがままを言った私がいた。

それでも学校には行かされたが、精神力だけは心がボロボロになったって耐えて自傷しないほどには鍛えられたので、一応感謝している。

引き替えに、誰も聞かないのだと、誰にもうまく苦痛を吐き出すことが出来なくなってしまったのだが。

そう考えると私がいけなかったのだろうか。

もしもいつかの過去に行けるならと聞かれれば、私はあの日に還り何が何でも幼い私に首を横に振らせると答えるだろう。

私がいけなかったのだろうか。ここ数年、いつも私は自分を責め続けている。

平凡で、家族に恵まれて、高校の成績は中の中。テストは概ね平均点。

それなりにおしゃれをして、友だちがいて、普通に恋をして普通に失恋する、密かにそろそろ人恋しいと思うだけのもてない21歳の高卒オタク女だ。

十分に幸せそうなのに、それを客観的に書いている私はこんなにも満たされない。誰でもいいから縋りたい。

思いたち、数日、SNSから姿を消してみたが、取り立てて誰かが「私がいない」と発言することは、ほとんどなかった。連絡もこなかった。

何を期待していたのだろうか。誰にも認識されず必要とされず、自分を責めながら恨みつらみばかり言うだけになった面倒な女を誰が見ていると言うのだろうか。私のいないSNSは見ていて愉快だった。楽しそうだった。

自分自分を殺さないと思う代わりに、家族が思いつめたら、と、一週間で何度も思う。それでもそんな事は誰にも言えなかった。

病院に行こうとも思ったが、また病院には行きたくない。辛いんじゃなくて、それが甘えではないかと思う自分いるからだ。

被害妄想けが蓄積していく。発散するような楽しみはもう寝ることくらいしかない。

それでも寝て起きたら誰もいないと思うと、眠れない日が、たまにある。

今日を含めて16日で、私はもうひとつ年をとる。その日を転機に、私は何かを考えなければならないらしい。

これが誰か知り合いに特定されてもいい。私の家族ネットに疎い。それだけでいい。

いつかの日のために取っておいた15万円しかない貯金給料日を迎えてわずかに潤った預金は、多分、来月にでも使われることになるのだろう。

書いた色々なことがわがままだと言われても、なんとなくこうやって書き残せたか今日はもう満足だ。

もうおやつどきだけど、昼寝をして、冬に向けて衣替えをして、それから、前向きに考えていきたい。

ハッピーバースデー、15日後の私。22歳の貴女が幸せになれますように。

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