『必然性が現実性と可能性の綜合なのではなく、現実性が必然性と可能性の綜合なのだ』 - セーレン・キルケゴール
ところで、現実とは何だろう?
キルケゴールによれば、現実性とは、神なるものとの関わりによって生じた事実の積み重ねであるそうだ。
神の前に祈ることを現実なのだと唱える者もいれば、会社や家族に尽くすことが現実だと言う者もいる。
で、現実とは何だろう?
それは結局のところ、我々が最も大きく価値を置いているものとの係わり合いから生じるものなのではないだろうか?
我々は、各々が最も大きく価値を置いているものと関わることで、意味というものを生み出すことができる。
そのような係り合いにおいて生まれた意味こそが、現実なのではないだろうか。
それはたとえば、神であり、恋人であり、家族であり、未来であり、未知であるところのものから生じるものなのではないだろうか?
というのも、意味のないことばかりを行うことは、現実的な行いではないからだ。
また、現実逃避とは『意味のないことばかりを行うこと』であると言えるのではないだろうか?
このような意見には、反論が多くつきまとうだろう。
というのも、『現実には意味がない』と断定的に言う人間は、ずいぶんと多いからだ。
しかし、そのような人々に対して私は言いたいのだが――意味のないことを行うことが、果たして現実的であるだろうか?
意味のないことが即ち現実であると思っている人間にとって、意味のないことこそが現実的であるようなのだが、それこそが妙な話なのだ。
そのような人々は、現実のことを無意味な物事の集積と呼び、その中で生きることを現実と呼ぶのだが……これこそが非現実的な話ではないだろうか。
そのような人々の意見とは逆に、現実的であるということは、むしろ意味があることを指すのではないだろうか?
以上のことから言って、現実とは結局のところ、我々が各々にとって重要な物事と関わることで生み出される、意味というものなのである。
キルケゴールの言う「現実」とキミの言う「現実」って、同じ定義の概念なの? なんか、文章の下に行けば行くほど内容が素朴になっていってるんだけど
少なくとも、大切なものと関わり逢えるかどうかを問題にしている点においては、二つの定義は一致を見ていると思われる
キミは「現実は意味だ」と主張しているけれど、それって、現実の「意味」を「現実そのもの」と誤認してるだけじゃないの?
貴方にとって、意味のないこととは何ですか? 恐らく、貴方は自分の使っている言葉の定義を十分に行っていないために、私の質問に答えることができないと思うのですが
意味づけせずに認識できるものなんて存在しないよ ただ、観念としての「現実」を意味以前のもの(意味づけの対象となるもの)と見なすことはできる とすると、やっぱり現実それ自体...
貴方は自分の生活が逃避的だと思いますか?