2010-12-25

いわゆる歌ってみた勢とボカロ界隈の対立

Togetter - 「ニコニコの歌ってみたは『ハイエナに近い』とボカロPが発言。その発言への反応から見えてくる歌ってみた界隈の問題点

http://togetter.com/li/82444

http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/82444

Ohnuma Sound Lab. blog  年の瀬歌い手ボカロ界隈・これからの活動

http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html

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Ohnuma Sound Lab. blog  【追記1】前回の日記についての補足・お詫び・コメント返信など

http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-17.html

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前置き

発言者である大福Pは著作権法律の問題を主張しているわけではないので、今回の増田では法律面に関する発言は一切しない。

彼の主張は

  • ミリしら」
  • アナザー
  • 「敬意無き歌ってみた(とその聞き手)」

の三点であり、一貫してモラルマナーに終始している。

用語解説

ボーカロイドを用いて作曲したものをニコニコ動画投稿している人の総称。立場上は作曲

  • 歌ってみた

ニコニコ動画の一ジャンルを形成する、言ってしまえばカラオケ投稿したようなもの。立場上は演奏者。JASRACとの包括契約により、二次創作は認可されているため、歌ってみた界隈は著作権問題をある程度回避している。

投稿者が作品の中身を1ミリも知らない作品に初見で声をアフレコするというもの。立場上は演奏者であり、ミリしらをする人をミリしらーと呼ぶ。アニメ音楽などのアフレコに使われていたが、今ではもっぱら「歌ってみた(特にボカロ曲)」ジャンルで使われる。

分かる人は分かると思うが、「ミリしら」とは方便である。最低でも一度以上、作品を鑑賞することは間違いない。初見で声を音楽に合わせて入れるというのは並大抵の人間ができることではなく、事前に何度も聞き、メロディーラインの重なりを避け、コード進行に合わせた新しいメロディーラインを構築し、リズムにある程度合わせた歌詞の選出、推敲をしているのは疑いない。

元の曲の歌詞を変えたアレンジで、ミリしらよりは原曲に近い。(私の観測範囲内の話)主に「あにま」という歌い手がしているようである

CGMコンテンツ投稿サイト

大福Pの言う「敬意なき」とはどういうことか

Togetterまとめからいくつか抜粋する。(大福P=dfk_ohnuma)

ピアプロで改変不可って書いてあった曲でミリしらやった馬鹿がいたのか。正直ミリしらなんて作詞作曲者への冒涜から無くなるべき風潮なんだよね。「おまえの歌詞メロディなんてイラネ 曲の知名度だけもらってくわ」って事なんだからゴミ屑の発想。dfk_ohnuma

データモラル低下というと、ミリしらとか新しい歌ってみたを新曲と言ってしまう等のマナーがなっていないという話のことですか?znc

@znc そういうことですね。あとイラストもかなりひどいです。dfk_ohnuma

来年ボカロと歌ってみたがきっちり区別されるようになるといいな。あと、界隈の人数が減ってもいいからもうちょっとまともな人の割合が増えるといいな。「ボカロが盛り上がるのは歌い手のおかげ!」とか言ってるような奴が全員死んだらいいな。dfk_ohnuma

これ以降ブログに主張が移る。

「改変不可」の曲でミリしらを行った人がいたという事実は問題外だが、ここでは割愛する。

要は「マナーがなってない」ということである。それを人数が多いことと結びつけ、質の向上を図るために界隈の人数が減ればいいのに、というなんとも大学生はバカが増えすぎたからFラン潰せよというどっかで聞いたことのあるような主張である。ただし、今回は「マナーが悪いやつ」という偏差値以上に曖昧な基準ではあるが。

話がそれるが、当然「マナー(が悪い|がなってない|を違反している)」というのは誤用であるマナーというのは言い換えれば主体的な配慮であり、それを他者に「守れよ」と押し付けるのは間違いである。この場合ルール(相互が有利になるような取り決め)が望ましい

話を戻して、歌ってみた界隈の聞き手は、彼のブログから引用すれば

ボカロが栄えているのは歌ってみたのおかげ!もっと歌い手感謝するべき!」

ボカロ曲は人が歌って初めて完成すると思っている」

ボカロPは歌い手のための曲の下請け工場

「歌ってみた拒否るPとかいたら潰すから教えれ」

などという主張をしているようである。こういう盲目信徒というのはクローズドコミュニティであればどこにでも沸いてくるウジのようなもので、潰しても潰してもキリがない。

彼らは「歌い手感謝するべき」というように作曲者に敬意を求めていることがわかる。一方大福Pもマナーを求めていることからわかるように、これは「敬意が足りないvs敬意が足りない」という、宗教戦争である

大福Pにとって、「敬意ある行動」とは、「歌ってみたりする場合、本当にいい歌詞、いいメロディだと思うなら、それを尊重するはず」というスタンスで、芸術的に見れば保守的な位置にあり、ミリしら、アナザー作曲者を冒涜したもので「ハイエナシリーズ」にすればいいんじゃないの、というこのようだ。

芸術美術表現者はかくあるべきか 第一 まずは敬意を抜きにした主張(主に脱線

先の都条例でも同様だが創作者は「自由」の名のもとで表現をする。ここに留意する必要がある。

たとえ「そんな懐で大丈夫か」と金を積まれようと、「一番いい○○みたいな作品を頼む」と制限をつけられようと、すべての表現は常に解放されているのが原則。

「こんなの○○じゃない」とか「金積んだんだから俺の望むモノ作れよ」とかいう主張も、自由が担保されていなければできない旨の発言である

一次創作から二次創作物へは、原材料を加工し、加工物を作る工程に似ている。その二次創作から三次、n次と派生するケースもある。これらは基本的にもとの創作物のカタチを「ある一定」は保持しており、影響がないということはまずない。それは音楽、思想、文章、すべてにおいてで。

ニコニコ動画視聴者コメントマイリストの数がつくため、価値が付加される。歌ってみたという二次創作から歌われた一次創作動画が評価されるケースもままある(今回の火種の原因の一つ)

また、作曲者と演奏者、聞き手は持ちつ持たれつの間柄であり、どれが一番偉いというものではない。「作ってやってる」「見てやってる」「演奏してやってる」「ホールを貸してやってる」というのは他者を従属的に捉えた主体的な意見であり、それは表現、立場の優劣に寄与することもない。芸術とはそこに参加するすべての構成員に平等な立場を与え、すべてをフラットにする。指揮者演奏団体を纏めるから演奏家より偉いというわけではない。誤解されがちだが経営者労働者の関係がイーブンであるように、指揮者演奏家もまた、イーブンな関係にある。そこに作曲者が加わっても、聴衆が加わっても、地主が加わっても、その関係は崩れない。

そして表現されたすべての芸術品も平等である。真贋を、洋の東西を、場を問わず。優劣を感じるのは、表現の埒外である評論家が何かの作品を優劣付けて評定しようともだ。そしてすべての芸術家もまた、その優劣をつける本能に苦しめられるのである。大概、中身が薄い、質が低下したなどと主張する。

とにかく、一次創作二次創作の間に、表現上の優劣はないということである創作者の間でも、もちろんのこと。

芸術美術表現者はかくあるべきか 第二 敬意と価値の問題(主に脱線

ここで、敬意を払うということは、その作品を大事に扱う、ということとする。「大事に」とは、もとの表現者の意向に従う、ということにしよう。極めて主観だが、敬意とはそういうものだ。

敬意を払うということは、それに肯定的な評価をくだす、正の価値があるということでもある。ありがたやありがたや、ということで、「有難み」というように、めったにないこと、価値の高い、ということである

正の価値がある、大事に扱うということは、人間の所産であるが、芸術以前の行動である価値、敬意というのは芸術に含まれない。それらはたとえ定量的に計られようと芸術寄与することはない。「リスペクト」して創られようとその作品に敬意があるというのは「思い込み」である

創作以前に、二次創作者は一次創作者の創作物を引用する。引用することに優劣はない。しかし、ここに敬意が入ると話が違ってくる。

敬意が入る場合、往々にして一次創作者>二次創作者という大小関係が生まれる。芸術では対等関係にあろうと、人間の間に序列が生まれる。創作物との間柄にもそれは用いられ、もっぱら二次創作者は立場が下になる。だから芸術内でも引用したものは上になり、引用して創られたものは下と「見做される」

「配慮」は、自分の立場があなたより下だという意思表示であるあなたに敬意があります、という意思表示である。有難い機会ですということだ。

から、「マナーを守れ」「配慮しろ」というのは「大事に扱え」というのと同義であり、大事に扱ったとしても、そう見えなければ「大事に扱ってない」と思われる。

そしてそれはけして守る必要がないものの、ときに強制されるものだ。

からこそ、撤回こそしたものの、大福Pはいとき音痴」にまで言及し、「大事に扱ってない」という判断を下したである

からこそ、今も「メロディーラインや歌詞を変えること」は「作品を大事にしていない=敬意を払ってない」という解釈をしているのだ。

だがそれは、芸術以前の問題である

推敲後、追加予定。

おわりに(書き下しすぎて長くなり過ぎたため、明日あさってに推敲予定。主に脱線しているあたりは一括削除するかも)

今回の騒動は芸術以前、すなわち表現の埒外の問題である

しかし、大福Pは表現の枠内に押しこみ、自分基準のマナー創作物の中身まで相手に強いている。

彼は表現参加者にして、自由の犠牲者である

器量が狭いばっかりに、沸点を切ってしまった。

配慮、マナーとは他人に要請するものではない。

表現に配慮を要請するなど、もっての外である

品位ある行動は各人努めたいものだ。

しかしそれをするかどうかもまた、各人の自由の範疇である

信教したいが、異教徒の攻撃が怖くて活動できない、異教徒規制するか?

創作物の区分陳列はできても、集団をマナーの出来不出来で区分整除することができるか?

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