かつてアップルは、ipodと同時に自社で開発した音楽管理ソフト『iTunes』を公開した。
このソフト、フリーである。音楽を簡単に管理できる。しかもmp3の変換なども非常に簡単。
有料で売っても良いはずのこのソフトを、アップルは無料で公開したのだ。
大きな理由としてアップルは、ユーザーが各自バラバラに管理していた音楽ファイルを
統一して整然とした内部構成にしたかったのだ。現に今、iTunesをインストールしているユーザーの
My MusicにはiTunesのフォルダがあるはずだ。そしてそこに、アーティスト別、
アルバム別にフォルダ分けされたmp3が入っている。整然とした内部構成を歓迎したのは、
アップルの人間だけではなかった。音楽とネットとPCが大好きな連中が、こぞってiTunesを『クール』に、選択し始めたのだ。シンプルでメタリックなGUIも良かったのだが、iTunesが流行った最大の原因は、iTunesが世界標準になって音楽ファイルの管理の最大手になったからだろう。何かがグローバルスタンダードになれば、
大勢の人がそれにあわせようとする。その方が便利だからだ。
そんな風に標準化していけば、内部の精度も上がる。結果的にiTunesは、音楽をインポートして
管理するには最適のツール、というかもはや定番になった。CDをインポートするのはiTunesで、
実際に曲を聞くときは別の音楽再生ソフトで聞いている人もいるらしい。
それぐらい、iTunesは『音楽を管理する場所』として信頼されている。
さて、出版社では今、『各自』でさまざまな試みを行っている(もっともその中の70%は現状維持だと思うが)が、
『各自』ではダメなのだ。各自ではなく、アップル様が開発したiTunesっぽい書籍管理ソフトに、みんなノればよいのだ。
そうすれば、書籍のデータも、iTunesライクに管理できる。
タイトルとかでグラフィカルに並び替えできる。PCの中で書籍データが、時に整然、時に騒然となっている様は、見ていてコレクター心をくすぐるものがある・・・。
iPadにはそういうのがあるんだっけ? なんか、急にほしくなったよ。
2. 論破して言い負かすのが好き。時々母を泣かす
3. 週刊新潮は欠かさずチェック
5. 事件の報道を見ると、すぐさま「コイツは死刑だ」とか言う。でも、次の日には事件のことすら忘れてる。
6. 途上国は、インフラ整備や経済発展だけでなく、知能も遅れた人たちで成り立っている、と思ってる
7. フェミニストとか動物愛護団体のイメージが、80年代、90年代のまま止まっている
8. ここが不便だとか、戦略があざといとか、あれこれ文句をいいつつも、アップル社製品中毒
9. 結局はマスコミ批判に落ち着く
10. うがった見方が度を過ぎて、結局自分の立ち居地が分からずにいる
フリーソフトでも何でもいいから、とにかく何かを創作するアプリを触ることに、喜びを感じる。
もちろん本当にモノを作るのは『ソフト』ではなく『人』だ。
『ソフト』はただの道具であり、本当に価値のあるものを作れるかどうかは、当人の技量にかかっている。
しかしそうはいっても、IllustratorやPhotoshop、あるいはpremireなどの
プロご用達ソフトを触っていると、つい自分にも何か作れるのではないか
という錯覚が芽生えてしまう。やることと言えば、Illustratorで丸や三角を描くだけなのに。
クリエイティブに対する欲望は、性欲やゲーム欲と同じではないだろうか。ヤリたいし、作りたいのだ。(子どもを)
ただ、ある程度完成されたものを作るにはやはり習得する時間と習得してやるという意気込みが必要で、
それが結構苦痛だから、大抵の人はゲームやセックスに逃げてしまうのではないだろうか。
そういった意味では、『パーツを組み合わせて絵やゲームや小説や音楽が作れるコンテンツ』
というものが一定の評価を受けるのは当然と言えるだろう。
遊びでやっている人は、そこで満足してしまう。それでいいとも思う。
本気でそれをやりたい人は、そんなに多くない。
本気でやろうとするといろいろ大変だ。
例を挙げるなら、ハゲる。髪の毛が抜け落ちる。大量に。
そういう人がいた。誰のことかは忘れたけど。
やべえ、本題からずれまくってた。
えーと、つまり、何が言いたいかと言うと、世の人は結構
『クリエイティブ』に対しての欲求を持っていて、隙あらばそれを満たしたいと思っているんじゃないだろうか。
ただし、鍛錬ではなく、娯楽として。
プロからしてみればムカつく話だろうけど。
台風が来るのでわくわくしてしまったので飲みながらだらだら書くことにする。
最初に断っておくと、単なる業界の底辺ラノベ作家でシナリオ書いたり書かなかったりだから、詳しい人にはあんまり目新しいことはないよ。
漫画家さんが危機感を持って色々動くのにはもちろんいろんな理由があるけれども、
小説家が危機感を持たない理由は簡単だ。
良くあることだから。
漫画家の人は、判型が変わったからと言ってコマを割り直したり書き直したりすることは滅多にない。
単に拡大縮小するだけ。(書き直したりはするけど、それはサイズ変更にあわせた書き直しじゃない)
でも、小説はハードカバーから文庫本になるときに、大きく変わる。
一行の文字数も変わればページに入る行数も違う。
これは読みやすさに影響するけど、気にする人は滅多にいない。
(行にこだわる事で有名な京極夏彦先生が電子書籍化に意欲的なのは、なんか象徴的ではある)
だから発行される媒体が変わることを気にする人ってほとんどいない。
たんに紙で読むかネットで読むかiPadで読むかの違いでしかないし。
電子書籍という形で小説を読んだことがある人は判るだろうけど、文字サイズも一行の文字数も変えられるよね?
あれを凄く嫌がる小説家ってたぶんあんまりいない。
でも、漫画家さんで勝手にコマ割変えられたりしたらたぶんイヤなんじゃないかな。
流しこみゃなんとかなるだろうって言われたらその通りだし、フォントまで指定して活字組に意見がある小説家もほとんどいない。
(自分の本だって意識が漫画家さんより薄いってのはある。だって原稿のままじゃ絶対に本にならないもの)
良く言えば柔軟性があるし、悪く言えば人任せが多いから、だからこそ危機感を持ちづらい。
:::前説:::
ここ最近ネット界隈の著明な人の発言において「キュレーション」の重要性が語られるのをよく目にします。
それを読むたびに、とても共感していたのですがふと気がついたら、昔に自分がメモして考えていた事と同じだと気づきました。
以下の文章を書いたのは2009年11月23日。ふふふ、これって俺が前から考えてた事じゃん!って自己満足もきっと入っていると思いますが、
自分で読み返してもあらためて、考える所があったので、始めてはてな匿名ダイアリーに投下してみます。
みなさんの、考えるきっかけになりましたら幸いです。
■情報化社会(インターネット社会)における「学芸員」もしくは「DJ(ディスクジョッキー)」的存在の重要性について
近年のインターネットの普及に伴って、
個人が触れることの出来る情報の総量は指数関数的増加の一途を辿っている。
この事は「世界のフラット化」あるいは「情報格差の是正」という言葉で語られる事もあり、
基本的にはそれぞれの個人レベルの存在にとっては歓迎すべき事である。
しかしながら、現状のインターネットにおける
真の意味での情報化社会の完成された形態であるとは言えないのではないか。
潜在的なパフォーマンスを完全に活かしきれていないという事である。
インターネットを生かし切れない具体的な一例としては、
「情報過多」とい事が、まずあげられる。
■社会に存在する情報量が多すぎる為に、本来必要とする(ユーザーにとって価値のある)
情報を見分ける事が難しくなっている事。
この事柄の解決策として飛躍的な進歩を遂げたのが
いわゆる「検索システム」である。
現在の検索システムの主流といってよいGoogleの独自のアルゴリズムによる検索システムである。
特にGoogleによる検索システムの登場はインターネットの活用という面において
その優秀なアルゴリズムによって、ユーザーが求める情報に対する
検索の精度・効率は飛躍的に向上したのである。
インターネットの潜在的なパフォーマンスは完全に引き出されたのだろうか?
答えは『否』である。では現状で足りていない要素とは一体何であろうか?
まず検索システムが持っている基本的な特性として
「ユーザーの能動的な行動」を必要とする点があげられる。
能動的でないユーザーに対してより効率的に情報を提供する方法はないか?
(これまでのマスメディアによる一方的な手段でなく)
☆そこで必要になってくるのではないかと思われる新たな情報収集・提供システムの候補が、
『学芸員』あるいは『DJ』的位置づけの存在、あるいはシステムである。
「キュレーター」などとも呼ばれる。
学芸員に求められる役割は第一に、
各分野における専門知識をもって対象の管理・監督を行う事であり、
第二に持ちえた専門知識を元に普及・教育に努める事である。
情報化社会での役割として考える場合、特に重要になってくるのは、
第二の役割の「専門知識を基にした情報の普及・教育」という点である。
つまりある事柄における専門家とそれ以外の人々を橋渡しする役割である。
彼らは美術における専門家であると同時に美術自体の実践者、生産者でもある。
それぞれの職業や専門分野、あるいは生活を行っており、
それゆえ、生活時間のほぼ全てを美術にあてている専門家(つまり美術家・芸術家)
しかしながら、専門家(この場合は美術家)が生産したモノや情報の持つ
価値を享受する為にはある程度の専門知識を必要とする。
その際に必要となるのが両者の中間に位置する「学芸員」である。
しかしながら、その専門知識を持って、美術の専門知識を持たない人間に対して、
本来の情報を分析・咀嚼して、専門家でなくとも理解できる(その価値を享受できる)
「非・美術専門家」達はその気になれば(能動的意思を持てば)、
自ら専門書や、インターネットを使用して専門知識を得ることも可能であるが、
能動的意思の有無や、時間的制約からそれを完全に実行するのは難しい。
そこで学芸員(中間的位置づけのシステム)を間に挟む事により、
より効率的に、より短時間で対象の情報を得、理解し、その情報やモノの価値を享受する事が可能になるのだ。
必要とされている事ではないだろうか。
従来の考え方とはまったく別のシステムに変わっていくであろう。
(あるいは変わるべきである)
つまり従来の広告システムとは、販売主体が多大な広告(販促)費用を計上し、
【デメリット】
この従来の「広告」という考え方自体を
わざわざ広告という費用やマーケティングを考える必要はなくなるのではないか?
つまり、ユーザーが求める情報を完全にフラットに、効率よく提供・共有するシステムがあれば、
企業はいかに価値のある製品をつくるか?という本来の役割だけに集中できるのではないだろうか?
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またアホなネタを・・・
死にたいけど、まだほんのちょっとだけ生きたいっていう意志がある人にとっては、
「生きろ」っていう言葉は、たとえ無責任であろうとも、ほんのちょっとだけ救われるときがあります。
対症療法みたいな感じで、またしばらくするとつらくなったりすることが多いんですけどね。
今の仕事は中学からの目標だったので、辛いながらもなんとか踏ん張ってる。
で、もし出世して実務から離れちゃうとモチベを維持できる自信がない。
実際、今サブリーダ的なことやらされてて、正直くじけそう。
なので最初から興味の範囲外の仕事やってる人がやっていけてる理由がよくわからんのです。
俺が怠け者なだけだというのは解ってるんですけどね。
この間大学生に聞かれてすごい困った。
そんなに自由な時間がなくて
そんなにプロジェクト?に縛られて
夢って何ですか
だって今何もねえもん。
演技やってたけど、本格的にやる前に病気になって一時中座したまんま。
何も出来なくなってる。
そして、
いまからやってもなんも始まらない気がする。
なんも出来ねえ。
就職氷河期同じくらいの年代の奴らが何をやりたいか良く分からんしよく知らん会社に入った奴らを横目に
名前聞いたことあるよね程度の所で、やりたいキャリアでも、興味持てる範囲でもない仕事に突っ込まれて身動きすらとれねえ。
その内愛着がわくだろうと思って8年。
俺の夢って、何だ。
若い男と結婚するのはお互いの問題だし、男が劇団員だろうとなんだろうと別にいいんじゃないか。
でも、当然のようにその資金を息子にたかるという神経がどうかしてる。
男もそれが当然のような顔してるし。
うちの近所のコンビニやスーパーでは、レジの人と客が顔見知りだったら普通に談笑しながら会計してるぞ。
何度も通ったらレジの人から顔見知り認定されて世間を振ってくるようになるし。
その店の教育がそうであって、他ではそんな事無いよ
近所のコンビニでもスーパーでも、店員が常にフルスピードで商品を袋に詰め込む。
その度にきっちり「ありがとうございましたまたおこし下さいませ」をまるで罰ゲームみたいに、機械的に早口で繰り返す。
まるで誰かに銃で脅されてるみたいな焦りっぷりだ。
客としても、見ていてストレスを感じる。本当に、人間の振る舞いとして不自然極まりないと思う。
なんにせよ焦りというのはろくなことにならない。
10秒待つのにイラつくといって早くしても、今度は5秒待つのにイラつくようになるのだ。
ひとの心を傷つけて喜ぶ
心さびしき者に
聞く耳はなかろうから、
中傷された君に言う。
蠅たちの集まりでは、
蝶も「キモイ」と
陰口をたたかれるだろう。
心ない者たちのうちにも
自分と同じ美しさを探しつつ、
君はひとり、
大人になればいい。
それなら病院等に行くしかないだろうな