2010-06-03

処女厨はホント気持ち悪い。

最近よく聞く「処女厨」なる存在について、ホントきもちわるいと思う。

いや、もちろん女性処女性を求める男性が悪いというわけではない。

そういう人がいてもいい。美人であるとか性格が合うとかと同じくらいの比重、もしくはそれ以上の比重として

処女である」ことを重視するのは個人の価値観であって、誰にも阻害される謂れのないものだ。

ただ、さ。

ネガティブマイノリティー特有のウザさというか。

要するに、「俺は処女しか受け付けない」を「処女以外は人間クズ」に変換してるのがすっげえキモい

メス犬だのビッチだのなんだのかんだの、ネットに飛び交うスラングの数々がガチできもい。

そういう言葉現実で発せず、ネットでわめきたてる方が世の中に数多存在するということが、

心底キモい

そもそも、処女信仰っつーのは単なる価値観の問題であって。

日本処女信仰が根付いたのは明治以後のキリスト教流入から。

別に日本人処女裁判証明したりとかそういう歴史を持ってない。そんなキモい民族とは違うのが

日本人の良いところだと俺は思ったりもするがまぁこれは別の話。

日本人は元来農耕民族+汎神論的な土壌に育って来てるので、処女信仰ってあんまりない筈なのである。

強いて言えば処女信仰が生まれたのは、明治辺りに輸入された「愛」とか「恋愛」の観念からであって、

もっと言えばアンドレ・ジット辺りの元祖白人処女厨辺りのブンガクが輸入されたのが基だ。

もちろんそれはキリスト教の輸入と同義である。その中に含まれていた「恋愛」の観念が、日本では極めてファッション的な

自由恋愛」という一大潮流を形作った。

要するに、「処女厨」と「自由恋愛」は同じところに端を発しているのである。

自由に恋愛をするからには、当然セックスもする。愛し愛されてセックスをする。

しかし、「自由恋愛」を輸入した頃の処女厨ガチである。

この当時、自由恋愛する処女厨というのは「見合いお断り」「家と家の結婚なんてクソファック」

社会からつまはじきにされても俺は愛を貫くぜ、というのが処女厨の本来の姿である。

処女厨とは本来隠遁する存在であり、社会に向かってギャーギャー喚くようなモンではなかったのである。

それは「自由恋愛」を手に入れるための戦いで、これがあまりにロマンティックであったため、

日本では「恋愛」っていう観念が唐突に生まれた。過去のブンガクを遡れば、

「一途な愛」なんてめったにないことがよくわかる。日本人は古来、やりまくりである。

しかし、処女厨のよーわからんところは

自由恋愛」を彼らはあんまり認めない。というよりは、彼らは「自由恋愛」にあんまり触れていない。

それどころか、「自由恋愛」に唾を吐く。恋愛する人間にギャーギャー言う。

しかし、処女であることを求めるということは、自分が突っ込むまっさらな穴を求めているということで、

非常に身勝手である。処女厨童貞であることを誇っているのを見たことがない。

古来、日本処女厨というのは童貞を誇ったものである。童貞処女ドッキングすることが

明治以降のブンガクの始まりであった。(ただし、田山花袋にあっさり覆されたが)

要するに何が言いたいか。

処女厨よ、童貞を誇れ。それでこそ君は正当なる処女厨となれる。

あるいは、「俺は既に生涯たった一つの穴を持っている」と叫べ。そうでなければならない。

処女厨である限り、童貞は肯定されるべきでしかないはずなのに、

童貞を誇る処女厨を見たことがない。これはまこと気持ち悪い。

真性なる処女厨よ、高らかに童貞を宣言せよ!

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