2010-02-01

本当は怖い水戸黄門

えらい人の知りあいは、たいてい偉そうで、高圧的で、周囲を脅す。ところが「本物」が出てくるととたんに小さくなって、くだんのえらい人は、腰の低い、穏やかそうな人物だったりする。

ところが「実はえらい人」が、チンピラ露払い抜きでどこかに現れて、その人が腰の低い振る舞いをしたところで、たぶん「ただの腰の低い人」としか認められない。その人が、たとえヤクザの大親分であったとしても、目立たない格好をした穏やかな好人物として振る舞ったのなら、そうとしか見られない。

チンピラ抜きのえらい人」が、「単なる腰の低い人だ」なんて認識を受けて、その人の「偉さ」に見合わない、横柄な扱いを受けたとして、そのひとがなんの葛藤も自覚することなく、変わらず腰が低く過ごせるかというと、分からない。難しいと思う。

暴言を吐いて、横柄に振る舞う「えらい人の知りあい」と、穏やかで腰の低い「本当に偉い人」とは、相互依存の関係にある。とくにえらい人の側は、チンピラ役を買って出る人がそばについていないと、快適に、穏やかな日常を過ごせない。

水戸黄門というのは本来、「全量に振る舞いたかった黒い人」が、強引に願望を叶えるための物語なんだと思う。

真っ黒だけれど有能な政治家として活躍したご老公は、ある日内に秘めた暗い欲望を慰撫するために諸国漫遊を思い立つ。

一行は旅をして、行く先々の名物を楽しむんだけれど、ご老公はすぐ飽きる。飽きて「楽しむ」ために、弥七とその部下が、どこかで困っている人を捜す。状況は逐一報告されて、もめ事を霧散させるのは簡単なのに、ご老公は「もう少し様子を見ましょう」なんて、火に油を注いで、悪役の退路を断ってしまう。

悪役だって本当は、どこかで妥協点を探るんだけれど、ご老公は政治の達人だから、ぬるい妥協ルートは、全て前もってふさがれる。悪役は仕方なく、悪事をどんどん大きくする選択枝へと追いやられて、追い詰められて、涙目でご老公に絶望的な戦いを挑まされる。「助さん」「角さん」「印籠」は無敵だから、悪役はそこで叩きつぶされて、ご老公は笑顔を振りまいて、次の獲物を探しに旅に出る。

黄門様のあの笑顔は、助さん角さんのえげつない暴力描写が支えている。

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