愛していると言っても良いラーメン屋の支店が、最寄り駅前に出来た。これには飛び上がるほど喜んだ。もう、わざわざ身繕いして街に出る必要もなくなったのだ。片道40分から片道5分に大幅縮小だ。グッジョブすぎるぜ俺の駅前。
そんな期待の気持ちは日に日に大きくなる。それと同時に、他店と味は違うかな、居心地はいいかな、と不安な気持ちもわき出てしまう。そんな相反する心を抱えながらの日々は実に楽しいものだった。そしていよいよ開店日に、自分はほぼスキップで足を運んだわけだ。
結論から言う。ひどく絶望した。開店から約1ヶ月の間に3日を置かず通った上で言う。絶望だ。
自分はラーメンの煮玉子がことのほか好きである。全食物の中でも一二を争うほどに煮玉子には愛情を注いでいる。半熟ならなおさら良い。そのラーメン屋のメニューにも「半熟煮玉子」が並んでいたわけだが、開店当日にトッピングとして出されたそれに愕然とした。半熟ではないのである。
いくら自分でも、ラーメンの煮玉子がちょっと固かったぐらいで文句を言うほど狭量ではない。しかしこの店は、メニューに堂々と「半熟」と明記し、あまつさえとろーり黄身が揺らぐ写真まで添えているのである。もちろん他店では見事な半熟煮玉子を出しているのだ。それが、眼前の「煮玉子」なるものは完全なる固茹で。さながらゴムである。半熟?なにそれ美味しいの?状態だ。もちろん半熟は美味しい。
確かに煮玉子は半分に切るまでは半熟か否かは判断し難いものだろう。だが、半分に切るのは客から見えない厨房だ。彼らにはラーメンに乗せる間に、「これを半熟煮玉子として提供してもいいものだろうか」と逡巡する機会が与えられていたはずだ。それを躊躇しなかったこの支店に、自分はショックを受けた。
その夜、落胆した気持ちのままそれを友人に伝えると「夏だから固めにしてあるんじゃない?」との助言を頂く。そうか、確かにそれもそうだなと、自分は己の頑迷さを恥じた。自分の愛するラーメン店が、そのような愚行を犯すはずがないのだ。翌日、改めて支店を訪れた自分に提供された煮玉子は…他店と寸分違わぬ見事な半熟煮玉子だっだ。
絶望である。彼らの煮玉子が固かったのは安全性を考慮したわけでもなんでもなく、ラーメン店としての矜持を捨て、横着をした証拠だったのだ。1度希望を持ち直した分、絶望は深く重い。それ以降、自分はこの支店には望みを抱かないことにした。抱かないことにはしたが味は好きなので通ってしまうのが自分の愚かなところだ。
しかし3度4度と通ううち、初回を除いて、美しい煮玉子が続いていることに自分はまた仏心を出してしまった。あれはなにかの間違いに違いない。きっと開店初日で焦りもあり、教育が行き届いていなかったのだろう。もっとおおらかな目でこの支店を応援してもいいのではないだろうか。
そしてこれが昨日の話だ。自分のラーメン鉢に乗った煮玉子には、
黄身が半分なかった…。
縦にすっと切れなかったのだろう。白身は4つに砕け、ひしゃげて平たくなっている。とろーりとしていただろう黄身の半分は、スープの中に溶け込み形を失っていた。確定である。この支店は煮玉子様に対する敬意も、客に対する誠意も持ち合わせていない。良いラーメン店の条件はなにか。チェーン店なら安心とサービスを、頑固親父を気取るならラーメンに対するこだわりと敬意を、客に示さなくてはならない。いくら味が美味くとも、くだんのラーメン屋は大失格だ。
これほどの悲しみを叩きつけられても、望みを抱けなくとも、自分はまたこの支店に通うだろう。美しい半熟煮玉子が出たなら、それは僥倖だと自分に言い聞かせよう。それがよく訓練された信者というものだ。自分から半熟煮玉子奪い、希望を奪ったこのラーメン店を、俺は愛している。
店名も書かずに批判とな。
とても批判には見えないのだが。 愛にあふれているだろう?
もう、そこのバイトに応募しちゃえよ。
増田がその支店を愛することに決めたのなら、これを直接その店に言った方がいいんじゃないか。本店にチクるとか。それが信者と言うものだぜ。
ダメ男に貢ぐ女みたいだな…。
男も女も一緒だよ。 こいつ俺がいなきゃダメなんだ。守ってやらなきゃ支えてやらなきゃ、って思いがち。 実際は、すごくたくましいんだよなー。そういうやつに限って。
その夜、落胆した気持ちのままそれを友人に伝えると「夏だから固めにしてあるんじゃない?」 なんかワロタ。友人との温度差。