武士ってよく分からない。
戦う人なのか単なる行政官なのか。
なつきさんの親戚には自衛官に警察官、消防士、救急と「公僕」が多い。
だけど、戦う、に関しては、
なつきさんちで語り継がれる戦いは「防衛」戦である。
拡大は商売によってなされた。
戦って名を上げ、領土を拡張するという武士のもう一側面はなつきさんちでは劣勢だ。
だから、東大→アメリカ留学という道で「名を上げる」ルートの評価は微妙な位置にある。
人工知能に注入されたのが、拡張を目指す知識欲なのは示唆的だ。
◆
その中でもっともそうした「縁」を体現するのはなつきの曾祖母だが、
この「縁」がくせ者だと思う。
戦うことと縁には考えればすぐ分かるように固有の緊張関係がある。
ゆえに平時には縁が強調され、
戦うは非常時に押し込められる。
だが、名を上げる、には「競争」が必須であるように、
戦うは非日常に封じ込め切れるものではない。
サマーウォーズを観ていての一番のひっかかりは、
曾祖母が掲げる「負けない(戦う)」と「つながり」の矛盾を映画が解ききれていない気がしたことだ。
縁にはレイヤーがいくつもある。
黒電話で活躍する曾祖母のネットワークは、平和と危機のコントラストの中では機能するが、
恒常的な闘争状態ではどうだろうか。
こうして、戦う、との矛盾が最小限の、
一致団結したつながりとして親族が浮かび上がる。
だが、親族には血による縦のラインとは別に、
婚姻によって拡大する側面も存在する。
この婚姻の困難を、主人公が引き受ける。
婿ドノは他人なのだ。
他人を親族に引き受けるために、曾祖母さえ約束(契約)の形をとらざるをえない。
◆
曾祖母は、負けない、と、つながりに加えて、
飢えない(食べる)も示すが、
これもうまく掘り下げられてる気はしなかった。
戦うと縁の矛盾は、婿ドノの困難に関しては、
戦ってる人はかっこいい!(恋愛)というモメントで解消されるのだけど、
それは、悪くはない。
でも、戦ってる人はかっこいい(cool!)って感じで、
戦いに必要な数が動員されるのは(分かっててもグッとくるだけに)なんだかなあ。
セカイ系?
サマーウォーズの中で訪れる危機は、
セカイ系でしょうがないって気にさせもするけど・・・
親族は中間項たりえてない気がする。
◆
映画の観始めに考えていたのは、
戦うと縁とかではなく、
エンドレスエイトが終わった時の実況のまとめスレはさらにすごい。
皆が、キター、っていうことは、確実に目眩がするぐらいの心の打ち震えをもたらす。
グッとくる。
映画の中の、コイ!、も同じな。
ただ、この量的な過剰さが「溢れる」ことによる感動は、
AAが崩れて、いくらスクロールしてもパチパチやキターが続くのはなかなか圧巻。
だけど、同じ理屈でいくと、
映画館のスクリーンにこの種の「過剰さ」による感動は向くのかという疑問がわく。
このグッとくる感じは、映画の「細部」がもたらす「豊かさ」とは違うと思う。
定義はしない方がよいだろうけど、
人はこの二者を別物として感じると思う。
記号としてのモノは溢れていても風景はない。
(細野さんらしい)
初め「家」に見えたものが増殖して「城」とか、あっと驚く瞬間はあるけど。
記号としてのモノの、数量的な過剰さ。
画面を「文字」が溢れて埋めるんだから。
戦う、と、つながり、と数量的なものを、
戦ってる人はかっこいいからつながる(恋愛&数量的なcool)以外で見せてほしかった。
見逃してるだけなら教えて。
◆
以下過剰書き的に
・アニメで横にパンするってすごくない?
受けるというかザッツザジャパニーズアニメ!って感じにもてはやされそう。
船て
・止めて、が世界の話と個人レベルをつないでて、セカイ系な感じ。
・公僕が、より大きなおおやけのためにルールを無視するあたりも好き。
・やっぱ、おばあちゃんが何を望んでるのか、
伝統か、負けないことか、勝利か、飢えないことか、つながりか、
明確でないことがダメなとこな気がする。
そのせいで、各人の心理が論理的でない。
そこを、グッとくる、「情」で押し流してる。
・ただ、曾祖母が「生きてる」こと、
人が生きて死ぬことの中には、
そんな矛盾とか織り込められてる気もするが、
半ば死んだ英雄、神話にしてしまっている気がした。