「涼宮ハルヒの憂鬱」にて5回目の「エンドレスエイト」が放送された
この構成に対して、前衛とか、チャレンジという言葉でくくるだけの人も多いと思う
しかしそれだけの解釈だと次回以降を見るのに義務感が先に立ってしまう
よりエンドレスエイトを楽しむためには、もう少し考えを推し進める必要がある
今まで「繰り返しに何の意味が?」という問いには、
「見てる側にもループを体感させるため」という答えで十分だった
だが「こんなに何度も繰り返す意味は?」という疑問や、
「せめてもっと違う展開にすべき」という意見も出てきた
しかし違う展開を入れてはダメなのだ
全く同じ展開を繰り返すことこそが、エンドレスエイトの本分なのだ
細部を変えない事によって得られるものは、視聴者の期待感の喪失である
しかしオチがどうなったかは録画したのを確認すればいい
とすると、エンドレスエイトを楽しむには録画してはダメということになる
録画視聴という行為には、少なからず「確認」という意味が含まれてしまう
いつでもストップできるからどうしても義務感がつきまとう
そこで・・・
全く同じ展開を繰り返す理由はここにある
違う展開を入れてしまっては、録画視聴することに意義が出来てしまう
エンドレスエイトを楽しむには、オンエアをリアルタイムで見る必要があるのだ
スポーツ中継なんかも、結果だけ知りたければスポーツニュースで十分だ
映画もドラマもゲームも、オチだけ知りたければネットで確認すればいい
どうすればネタバレを無効化できるか、
その一つの答えが今回のエンドレスエイトというわけだ
若年層が大半のネットで不評なのも当然といえば当然で、
エンドレスエイトはオッサンこそが一番楽しめるのかもしれない
「TVの前に座ってアニメのオンエアを待つ」なんて、
オッサンにとってそんな体験もう二度とないかもしれない
そもそも「ネットで不評」とか、そんな物差しだけじゃつまらない大人になっちゃうぞ
でもエンドレスエイトはもとから語ることを否定している
語ることを拒絶したものを語っても否定にしかならないのは当然
あれが空疎に聞こえるのは、スポーツ観戦とはまずはじめに見て楽しむのが
前提なのに、語りオンリーで攻めてくるから
まあ何でもそうだが「楽しむ」ってセンスがいるよね
アニメに対して「語る」以外に出来ることとは?
かつて映画界にはアメリカンニューシネマやヌーヴェルヴァーグというジャンルがあった
宮崎駿はそれらを
「理屈抜きで楽しんでって言うけど、どうしたって理屈はついてくるんですよ
なんて皮肉ってたが、まあ、ああいう映画を今見るとそりゃひどいもんだ
きっと5年後にエンドレスエイトを見てもちっとも楽しめない
他放送地域の俺をカチンとさせたことは把握した。 http://anond.hatelabo.jp/20090718053045
なるほど、エンドレスエイトは水戸黄門だったのか! これは全く気が付かなかった。 視聴率回復の為に時代劇の再放送枠を作るテレビ局もあるようだし、これでハルヒの安泰は確実だな...
最初はテレビで見て、保存用としてYouTubeで公式配信しているのを落としていたけど 二度手間だなと思って今は落としたのしか見てないな。 オチ違うだけに見えるけど複数話同時再生す...