2009-07-12

流れの激しい小川の畔を、さもしそうに腹部を擦る狐が歩いていました。

もう何日もしっかりとした食事にありつけていません。水で空腹を誤魔化す毎日に飽き飽きしていました。

ふと、引き付けられるようにして対岸に目が移りました。丸々と膨らんだ果実をひとつだけ実らせる葡萄の木が起立しているのに気が付きました。

お腹が空きすぎて朦朧とし始めていた狐は、もう食べたくて食べたくて仕方がありません。けれど、勢いよくうねる小川を挟んでいるためにどうすることもできませんでした。

何か手立てはないものかと、しばらくの間辺りをうろうろ歩き回りましたが、結果は芳しくありません。やがて、忌々しそうに葡萄を睨みつけるや、悔しそうにぼやきました。

「どうせ酸っぱかったに違いない」

がっくりと項垂れると、再び畔を歩き始めました。

「やあやあ狐さん狐さん。どうされたんですか、そんな生気のない顔をして」

唐突に、藪の中から長い長い蛇が現れました。興味深そうに鎌首をもたげる姿に、狐は悄然と口を開きます。

お腹が減っているのです。葡萄を見つけたのですが、どうしても取れなくて。でもいいのです。どうせ食べられたものではなかったでしょうから」

そう言って、対岸の葡萄を見つめました。

物欲しそうな眼差しの中に浮かんだ自嘲にも似た暗闇に胸を打たれた蛇は、分かりました、と一言口にすると、するすると小川に入っていきました。

蛇は急流の中をいとも容易く泳いでいきます。あっという間に対岸へと辿り着くと、そのまま葡萄の木を登っていきました。

垂れ下がる葡萄の許まで辿り着くと、眼下で見上げていた狐に向かって大きく声を張り上げます。

「狐さん狐さん、この葡萄が食べたかったんですよね」

「ええ、ええ、そうです。持ってきてくれるのですか?」

「もちろんですよ。あ、でもその前に確認させてください」

何をするのだろうと、狐は不思議そうに首を捻りました。が、蛇が行ったとんでもない行動を目の当たりにすると、俄然いきりたってしまいました。

「やい、このクソ蛇め。なんてことをするんだ。俺の葡萄を食べるなんて。ただじゃおかないぞ」

声に、果実の一つを口にするやびりりと震えた蛇は、何一つ反応を返しませんでした。

「こら、クソ蛇。聞いているのか。早く降りて来い」

言って投げられた石ころに、驚いた蛇はようやく我に返りました。

「狐さん狐さん。悪いことは言いません。この葡萄は諦めた方が身のためですよ。あなたの言ったとおりだった。とてもじゃないけれど食べられたものではありませんよ」

「うるさい。さっさとそこを離れろ。俺の葡萄に近づくな、クソ蛇め」

癇癪を起こしてしまった狐に、蛇の言葉はもう届きませんでした。

飛んでくる石ころや木の枝に恐れをなした蛇は、するすると葡萄の許から降りると、そのまま対岸の奥へと消えていってしまいました。

「なんて蛇なんだ。優しくする振りをしておいて自分が食べるだなんて」

憤りをあらわにした狐は、もう葡萄が食べたくて食べたくて仕方がありませんでした。この場を離れた隙に、蛇に食べられてしまうと考えただけで頭が沸騰しそうになりました。

しかしながら手段がありません。どうすればいいのかしばらく悩んだ末に、決心を固めました。不慣れにも関わらず、小川に向かって勢いよく飛び込んだのです。

ざぶんと浸かった途端に呼吸が苦しくなりました。鼻も耳も水に侵されていきます。もがく手足は僅かな抵抗しか生んでくれません。早々に急流に押され始めてしまいました。

このままでは死んでしまうかもしれない。

思った狐は、恐慌をきたしながらも死に物狂いで手足を動かし、やっとのことで対岸へと辿り着くことに成功しました。

噎せ返り、疲弊した体をしばらく野に預けてから木に登ります。目前に迫った葡萄に手を伸ばすと、とうとう念願の果実を口に含めるようになりました。

これで、少しはお腹がいっぱいになる。満足し、捥いだ果実を噛み締めたときでした。電流が走ったかのような酸味が、口の中いっぱいに広がったのです。

堪らず狐は葡萄を吐き出してしまいました。舌は痺れ、視界はちかちかと瞬いているようです。ここで同じ景色を見ていたのであろう蛇の言葉が思い出されました。

――狐さん狐さん。悪いことは言いません。この葡萄は諦めた方が身のためですよ。あなたの言ったとおりだった。とてもじゃないけれど食べられたものではありませんよ。

その通りだったのです。蛇は、何も意地悪がしたかったわけではありませんでした。本心で狐のことを思い、優しさから諦めるよう諭してくれていたのです。

狐はもう一度葡萄を口に含みました。毛が逆立つような酸味が、電流となって体を駆け巡りました。そのあまりの味に、両目からは涙がこぼれてきます。

でも、それでも狐は次々と葡萄を口の中に含んでいきました。

「美味しい。美味しいなあ」

口にする狐の目から溢れる涙の理由は、何も葡萄が酸っぱいからだけではないようでした。

  • まず、会話以外の文を、改行以前で終わるようにしましょう。 お手本 http://anond.hatelabo.jp/20090711032230 あとは狐よるクマの方がいいかな。

  • ここ数日で五編の掌編を書いてみたわけだけれど。 思ったことと、お礼なんかを列ねてみようと思う。 まずは第一作。「裕福な扉」 http://anond.hatelabo.jp/20090711032230 題目なんか考えずに...

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