横だけど、こんなもんはただのノロケだ。
相性悪いんじゃないの?
おなかいっぱいだって思ってるのに、言ってることはみかんと粉チーズの話ってことは、
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
といっても、昼間は一切飲まないし、休肝日も守っているのでアル中とまではいかないと思うのだが。
禁酒できない1番の理由は、酒がないと飯が不味くなるからだ。
日本酒を飲まずに魚を食ったら旨さ半減だし、赤ワイン飲まずにステーキを食うのも然り。
唐揚げがあるのにビール飲まないなんてありえないし、中華は紹興酒がぴったりだ。
カレーには軽めの赤ワインが合う。蕎麦は蕎麦焼酎。デザートにはウイスキー。
どれもこれも、酒がなかったら味気なくて、わざわざ食べる価値を感じられない。
唯一の例外はラーメン。本当はビールが合うと思うのだが、ラーメンの汁を飲んだ上にビールまで飲むと腹がたぷたぷになって苦しいので、このときばかりは我慢する。だから、週1回の休肝日はラーメンを食うことにしている。
禁酒できないもう1つの理由は、酒を出さない店の情報に、知識としての価値を感じられないからだ。
定食屋や喫茶店に詳しくても、食通とは思ってもらえない。旨い地酒のある寿司屋とかお洒落なワインバーとか知っていたほうが重宝される。他にとりえのない俺にとって、「いいお店教えて」と頼りにされるのは数少ない腕の見せ所なのだ。だから、どうせ同じ金を払って外食するなら、定食屋よりもバーを新規開拓してみようと思ってしまう。
うつ快方期だから発言には気をつけねばならない相手
サラダは市販のシーザーサラダにみかんの果実トッピング、プラス粉チーズとドレッシング
「サラダいらないの?」
と言うからつい、
って返したら、
とくらーい声で言われた
「(はっ!しまった)で、でもパスタはおいしかったよ!」
「……そうですか」
つ か れ る
毎日こんなことのくり返しです
と思うんだけれども
たぶん、週一のごはんづくりも自分の価値を認めてもらいたくて、
褒めてもらいたくて、やってんだろう
だからみかんに粉チーズを否定されると自分も否定されたような気がしてしまうのかな、と推測
軽口にも気を遣わなきゃならない毎日に疲れたので吐きました
嫌いなのはよくわかったから、
もうこっちに近寄ってくるな。
まかり間違ってツンデレのツンとか言い出すんだったら、
ますます近寄ってくるな。デレが来ないツンなんて迷惑でしかない。
こっちに来るな。あっち行け。お前らにとっていい相手と一緒にいればいいだろ。
一緒に食事に行く相手はいます。
ただ、インフォーマルな領域では他部署の人や女性グループとばかり仲良くしていて
同期や部署の先輩など直接的な利害関係のある人と距離を置いてしまいます。
確かに、他部署の人からも「先輩と同期が揃ってノリのいい人ばかりで増田さん一人が浮いている」と言われています。
男だが、満員電車で痴漢と思われる様な行為を一回だけした事ある。
高1の時。身長が低いので、ちょうど自分の股間が前の女性のおしりに当たってしまう。
今なら体勢を変えるのだが、その時は高1である。
今思うと、前にいた女性は間違いなく嫌な思いをしただろうと、痴漢だと思っただろう。
それを思い出すたびに、相手の気持ちを考えるたびに、マジで死にたくなる。
今でも自分の性欲に罪悪感がある原因の内の一つになっている。
イケメン無罪とかの考えの根底には、そういう罪が許される可能性みたいな最後の希望というか、許される場合もあるという免罪符のような機能があるような気がする。
えーじゃあ
孤立するのが嫌だったらささっとその努力とやらをやってみろシネ
とでもかけば良かったの?
きっかけは自分で作りなさい
そして時には開き直りも大切なんだよ
って言ってあげるのがベターだと思ったんだけど
違うの?
2行目と3行目は前提条件でつながりはないよ。
首都圏での痴漢件数/年間って、表沙汰が50件くらいだろう、、って思って書きました。
googleで、"首都圏痴漢件数 年間" を検索すると、2004年の首都圏路線での痴漢件数は2,201件ってでてますね。
http://r25.jp/b/wp/a/wp/n/%8D%E9%8B%9E%90%FC/i/%92s%8A%BF%8C%8F%90%94%8D%C5%91%BD%98H%90%FC
年間50週だとすると、44件/週。で、平日のみに発生していると仮定して、8.8件/日ですか。
これは、あくまで警察に届け出があったもので数字をだしているだけですが。未届けがどのくらいあるかはわかりません。
道を歩いていていきなり後ろから胸を鷲掴みされることもある。これも痴漢だよね。
増田のトラバツリーの意見は、この3つの違いを意識して読み解いたり書いたりしたほうがいいと思う。
ここからは私の観測範囲内での話。
女性の10人中8人くらいはこの性犯罪にあったことがあるんじゃないかな。ほんとに多いよ。
性犯罪の内訳は、痴漢、(自慰見せつけ)露出狂、ごく幼い子供に対する接触、レイプ、下着ドロ、のぞきとか。
私が割と長期間住んだ町では露出狂の出現率が高かった。次に路上痴漢かな。
性犯罪の何が傷つくかって、ランドセルや制服時代の性について知らないときに遭遇することが多いからだと思う。
男同士の会話の内容や彼氏とのやりとり、男性目線週刊誌のつり革広告が横行してることや
具体的な知識や性欲というものに触れたり肌で感じていってはじめて、
私は幼い、知識のない、女であるという3点のみ(あるいは女のみ)の属性を、
見知らぬ男に欲望され一方的に解消行為に巻き込まれたんだということ、
そういう性的欲求を抑えて日常生活を送る男が多数存在すること、
自分がただ欲望されるだけの女であることに傷ついてゆく。
いきなりそんな重いかもしれない話題をまれに笑う男性もいる中、親しくない男性にはふらない。
なんてかわいそうなバカな行為をするんだw俺はやりたくてもやってないのにw
そういった性犯罪にあわなかった女の子に対しては、私はラッキーな人でよかったねと思う。
でもそうやって考えるのってやっぱ悲しいことだ。
てす
「元いた国に帰るだけ」と「ろくに知らない国の人間になる」とでは大違いだろ。
そんな保証を取ろうとすること自体意味が無いと思うんだけどね。
選挙権があるってことは、自分に有利になるような政策に投票してもいいってことだ。それはリスクじゃなく、選挙権を与えることの当然の帰結だろう。
そもそも、外国人=母国のために投票 日本人=自国のために投票、と単純化してるようだけど、たとえばこの国内ですら国民が何のために投票しているのかを一概には論じられないのは明らかだろうに。
君の言うような工作員的なものが仮に現実的だとして、在日外国人のうち、自分自身ではなく母国の利益のために投票しようと考える人がどのくらいいるのか分からんが、仮に100%だとしても、外国人人口よりは日本人人口のほうがずっと多いのだが。
「どこにも属さず一匹狼的、周囲もそれを認知してしまった」状態
元増田です。
うちの会社は集団主義的な社風が強いから、組織の中で孤立するのは命取りなので
それだけは絶対に避けたいところです。
一匹狼を貫けるほどではなく下手に人間関係を求めてしまう性格なので。
思うに、合わない人とも自分を含めて3人までならなんとかやっていける。
「集団」をなさないくらいの人数だと対話や歩み寄りの余地がある。
自分を含めて4人以上になるともう駄目だ。
4人くらいの規模になると、その場に居合わせる多数派の共通項からなる「場の空気」が優先され、
個々人の歩み寄りは二の次にされてしまう。
食事にも常に3人以下で行くようにしている。
社内の複数の派閥に関与しながら全方位外交を行うというやり方が
今のところ自分の中で一定の成果をあげています。
ただ、その中の最大派閥的なもの(部署の若手男性社員グループ)と折り合いが合わず、
前述のとおり自分込みで3人までならなんとかやっていけるが、
それ以上の人数になると急に居心地が悪くなる。俺包囲網のように思えてしまう。
元を辿るなら鳩山の発言で、鳩山自身は「当然付与されるべき」と言ってるわけだから、「つか付与する理由自体ねーじゃん」というのはあながち筋が通ってなくもない。
http://anond.hatelabo.jp/20090325200236
で無いけど、最近こなくなった人がいたので、周りの人に聞いたら、どうやらクビになったそうで。
そもそも日本は「国民主権」が基本なのに、国民じゃない人間に主権を与えようとする理由がよく分からん。
大勢押しかけて祖国に有利な法律や政策を通しまくって、そして帰国すれば丸儲けだよな。帰化する気のない人間がそうしないという保証をどうやって取る?
それに、弊害が出た後で権利を取り上げる事もすんげー難しくなるよね。取り上げるかどうかの決定権自体を相手も持ってしまってるわけだからさ。
しかも、すぐ隣に人間だけはやたら余っていて、過去に周辺国を侵略しまくった前科持ちの独裁国家とかあるのに「度量の広さ」もへったくれも無いだろと。