2009-03-29

老人と不幸

ふと思い出したこと。

歩道を歩いていると、選挙が近いらしく、選挙カーが止まっていた。

あまり人気のない閑静な住宅街に近い道路だ。

中年立候補者が一人のおじいさんと話していた。

立候補者は聞き役に徹しており、おじいさんが熱心に話していた。

おじいさんは語り続ける。いかに日本がすばらしいか。日本人は凄いのだ。

立候補者は苦笑いしながら、うんうん、そうですね、と頷き続ける。

俺は、無関心に通り過ぎる。

やがて、話し声は聞こえなくなる。

しかし、年を取ると似たような行動パターンになるな。

新聞の投稿欄で、熱心に世を憂うのは老人ばかりだ。

ある講演の質問タイムに、大演説をして講演者を苦笑いさせたおじいさんも思い出す。

不幸な男はナショナリズムに、不幸な女はスピリチュアルに走るという。

では、基本的に、老人であることは不幸なことなのだろう。

身近なところで自分が必要とされない不安が、世間への憂いにつながっているのかも知れない。

しかし、個人主義唯物論左翼思想みたいなものを語る知識人エリートもやはり、どこか変だ。

違和感の中心にある物が、彼らの自分達の幸福に対する無自覚さなのか、彼らが自分達の幸福を維持するために

地位を活かしてその思想を広げるスタンスなのか、その両方かはともかく、彼らが自らの地位を維持するということは、

エリートカーストの維持であり、自分達に従う人々を敗北者のままでいさせるということだと思う。

能力があり、それが認知されている人は良い。幸福だろう。

若者も良い。自分無限未来が広がっているという錯覚重要だろうから。

でも、構造的に全員が自分のようになれないということを知りながら、その思想を押しつけるのは欺瞞だと思う。

じゃあ、全員が幸福になれる道ってないじゃん!とは、多分、その通りで、心のケアとしての

ナショナリズムスピリチュアルをある程度、適量を保って、検証しながら活用しつつ、

なんとかかんとか皆で生きていくしかないのではないか・・・。

おそらく、政治を熱心に語るおじいさん達は、日本人に生まれたことを誇りに思いながら死にたいのではないだろうか?

線香の匂いを漂わせているおばあさん達は、何を思って仏壇を拝むのだろうか?

自分が失敗した人生を送った場合、どんな思いを抱いて死にたいか。

最悪の状態に自分が耐えられるかどうか考えつつ、社会設計するみたいな考え方があったけれど、これから、

その辺りを考えることが流行るかもな-、と何となく思った。

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