2008-12-18

クラシック音楽の聞き方

これも非常に示唆的なのだが、その昔「ナニワ金融道」の青木雄二が「小説は『罪と罰』だけ読んでおけばよろしい」と言って、実際に彼はそうしてマンガを描いていたということがある。その代わりとことん読み込んで、その美しさの神髄というものをとことんまで突き詰め、それを作品作りに活かしたという。

これと同じように、例えば音楽家を志すなら、第九だけを聞き続けていれば、少なくとも「音楽は何か」と言うことは分かる。「音楽の美とは何か」ということの答は出る。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081217/1229508760

ある声楽家は、毎年第九に出ているがベートーベン音楽はしっくり来ない、と言っていた。全面的に賛成とはいわないが、分かる部分がある。

第九がどれだけ素晴らしくても、そればっかり聞き続けたって音楽の美とは何かに対する答えは出ない。音楽とは何か、分からないだろう。おそらく第九の素晴らしさも理解できない。

なぜかは、たくさん理由がある。まず音楽としてかなりいびつで、たとえば第一楽章の渋さはたいがいの人には理解不能。ようは典型になりそうな音楽じゃない。よく笑い話に、合唱が入るまで寝てたというが、それが当たり前。

さらにベートーベンの語法、様式(とそれに由来する奏法)が、非常に独特。あんな様式を要求する作曲家は彼しかいない。

有名な第四楽章アジテーションの塊で、それはそれで音楽の機能の一つではあるけれど感心できるものではない。だいたい歌が入る前の序奏部分の陳腐さ、歌のメロディーのくだらなさ。演奏にもよるが、聞く度にげんなりする。もっというと日本の第九受容にもうんざりで、あのイデオロギーを気軽に信じて毎年吠えたうえ(歌うのではない)、かつあの叫び声を聞いてうっとりできるという神経がおぞましい。ってか左翼がのんきに合唱祭りやってんじゃねぇよバカというふうにしか、日本では思えない。

ほかにもいろいろ言えると思うが、ようは第九はかなり特殊な音楽だ。あれさえ聞けば音楽が分かると思ったら、大間違い。素直に、いろんな音楽を聞いて、自分演奏して、そして少しずつ分かっていく。これが一番いい方法。西洋古典音楽にも語法、文法みたいなのがある。体でなじんでいくしかない。そうやってようやく、ベートーベンってこうかな?第九ってようはこうだと分かってくるものだ。

そんなの面倒臭いというならば、たとえば大昔のカザルスのチェロによる小品集、これをひたすら聞くのが一番いい。音楽とは何か、音楽美とはなにか(そういえば音楽が分かる哲学者って少ない。カントなんて下の下。しかし哲学が分かる音楽家は、もっと少ない)。小難しい議論はなにもいらない。

気持ちを伝えること、気持ちを受け取ること。音楽では言葉以上のものを伝えられること。そしてこの言葉以上のなにものかが、音楽でも生きる上でも大事なこと。何かを伝えるには、その何かを形にしなければならないこと。メロディーにどうやって性格づけするか、そしてどうやって表すか。などなど。

そういうふうに聞けば、音の古さなんかどうでもいい。気持ちを受け取るには、受け取ろうとする姿勢がまず大事なんだ。音楽とは何か、音楽美とは何か。ベートーベン大曲よりも、力が抜けて、小さくて、でも素晴らしい。そういうものを繰り返し繰り返し聞く、そして思い出す。

それさえ面倒なら、母親子守歌を思い出すのです。それを繰り返し繰り返し、歌ってごらんなさい。音楽美とは、音楽とは、つまりそういうことだ。

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