「思想の自由とは、実際には、自分が受け入れがたい思想に対する許容性を示すものだ。」
この人は、この社説での話題だけでなく、全般的に、「受け入れ難い」現実を作り出す政府に対しても、許容性を求めるのか?。
(例えば軍隊という実力機関が、ある受け入れ難い現実を作り出すかもしれないとき。)
「もちろん、思想の対決というのはあってもいい。それこそが自由だからだ。」
ならば、この朝日新聞の社説も含めて、ネットでの議論の様子は、まさにその自由を見せてくれているとは見えないのか?。
この人には、多分、それは「思想の対決」には全然思えないのだろう。
こんな発言は許さん、こんな人は辞めさせろ、そういう形で言われる、「思想の対決」もときにはある。
現実に影響を与える力に対しては、特に、そういう形になる。そうでなければ、何が対決なの?。現実を作り出すものに対しての。
この人は、現実をめぐる対決を、お行儀の良い「思想の対決」にしてしまって、現実の力の方はどうするつもりなんだろう。
しかも、この人の思う行儀よい「思想の対決」と見える、この人のお眼鏡にかなったものだけに。
そのお眼鏡にかなった第一等のものは、自分自身なんだろうな。