2008-11-05

小室音楽を叩く系の人に舌戦を挑んでみるかどうか悩んだ結果

とある思い出

中学時代、マッカーサーと呼ばれたロマンスグレーの美術教師は言った。

「本当にすばらしい芸術とは、万人にわかるものか、それとも一部の人にしかわからないものか」

生徒たちは沈黙する。

教室をサングラスの裏からひとねめした後、とくにもったいぶるそぶりも見せずマッカーサーは続けた。

「答えは、一部の人にしかわからないもの、だ」

ざわ・・・ざわ・・・(※誇張)

「真に優れた芸術とは、それが真に優れたものだとわかる能力のある者が見て初めて良さがわかるものである。万人に良さがわかるものは真に優れたものではない」

はりつめた空気を揺り動かすかのように鳴り出すチャイムの音に合わせて振り向くと、

「覚えておくように」

看守の残すそれに似た靴音を響かせマッカーサーは教室を去っていった。

時は流れ

覚えておくようにと言われたその言葉を聞いて以来、わたしはずっとその理由を疑問として抱えながら生きてきました。

しかし、未だにその答えは見出せていません(マッカーサーには怖くて聞けていません)。

「真に優れたものだとわかる能力のある者」とそうでない者の差が、本当の意味存在するのかどうかの、すっきりとした納得がいかないからです。

もっと言えば、「”真に”優れたものだとわかる能力」って何ですか?ってことです。それが「真に優れたものだとわかる能力」だってことを、保証してくれるのは誰なの? わかると思っている人の自己満足ではないの? それとも限られた「真に優れたものだとわかる能力」のある者同士? もしくは「『真に優れたものだとわかる能力』だとわかる能力」のある者なんてのがまたいるの? いずれにしても一部の人にしかわからない良さ、それってその一部の人たちの嗜好とどう違うの?ってことです。

嗜好であるにしても、それがその限られた人たちの豊富な知識や経験に裏うちされたものだってことはわかるのです。ですが、その豊富な知識や経験を有する人だけが「良い」とわかるものが、そうでない人も含めてより多くの人が「良い」と感じるものより上である理由がわからないのです。逆に言えば、多くの人が「良い」と感じるものを、わざわざ「いやそれは本当は優れてないんだよ」ということにできる意味がわからないということです。

それこそ、より優れた芸術作品とは、この多種多様な嗜好をもつ知的生命たちのより多くの固体に、「良い」と認識されるものではないのでしょうか。

ごく一部の者にとっての「良い」ものは、所詮その一部の者たちにとって優れたものでしかない、というわけではない理由はあるのでしょうか。

例えば私は漫画を描きますが、いくら私が技巧を凝らして、「これはすばらしいものだ」と思えるものができたとしても、見てもらった人々に「つまらない」「面白くない」と言われたら意味がありません。

「いや、このコマがこうなっている理由は、これこれこうだから。そしてここに歴史あるあの物語から換骨奪胎した暗喩を印象的に配し、それがまたここの斬新な伏線とのシナジー効果で・・・」等と説明すればできますし、そういう意匠に気付く人にだけ「おー、面白いね」と思ってもらえること、それ自体に意義が無いとは言いません。ただ、気付かないような万人でも「面白い」と思えるものよりそういうものが上だとはとても思えない、思える理由がないのです。

多くの人たちの支持を得ているものは、それだけで価値があると思うのです。

小室哲也の音楽は、大衆支持されこそすれ、一部では曲の軽薄さを馬鹿にされていたりもします。

私も大学のとき、知り合った天才ギター青年に、

小室音楽ってのは、薄っぺらいというか全部こんな感じで、こういう風にすれば全部小室の曲っぽくできる」

っていうのを実践してもらって、

「ほんとだー」

と感心したことがあります。

しかし、私は小室の曲は耳に心地よいと思う”大衆”の1人でした。そして、他ならぬ私が心地よいものは私にとって心地よいものに他ならず、内情を知ったからと言って耳に心地よくなくなるものではありません。私の「良い」は、私以外誰にも覆せないわけですし、それは誰にとっても同じことです。

そして老害へ・・・

そもそも「良い」と言っている人が感じているその良さが、真なる良さなのかそうではない低レベルな良さなのかなど、誰がどのようにして決めることができるのでしょう。決められないのだとすれば、その作品を「良い」とする者すべてが、その作品に対しては「優れたものだとわかる能力のある者」であり、「優れたものだとわかる能力のある者」を多く生み出せる作品ほど、真に良い作品なのではないでしょうか。

もしそうではないのだとしたら、誰かマッカーサー先生の残した言葉に説明を加え、どうか私にもわかるように教えてください。

そして小室哲也は、どんな曲が”多くの”人に「良い」と思われるかに気付いて、その良いものを、「良い」と思われる時期に、できうる限り提供しておこうとした、才能と熱意のあった人物ではないでしょうか。

<<注>> いまも才能があるかはわかりません。そしていくら才能があっても人に迷惑を掛けることは宜しくありません。私が評価しているのは、あくまで彼のかつての音楽に関してのことです。

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