2008-10-26

清原の引退セレモニーが面白すぎた件について

アスリートを対象に失神するほど笑ったのはあれが初めてだったかもしれない。長渕剛が暴走していたアレのことです。2008年プロ野球珍プレー・ナンバーワンは間違いなく清原の引退セレモニーだ。

僕はどっちかと言うとデリカシーというものを大事にする方だが、あんなもん笑うなという方が無理だ。突っ立ってるだけの清原の周囲をぐるり徘徊しながら熱唱する長渕剛、このカメラワークがおかしくておかしくて仕方が無かった。軽い挨拶程度で流されると思っていた「とんぼ」が、フルコーラスだとわかった瞬間も僕の呼吸困難に追い討ちをかけた。ネット上での感想を読んでいても僕と同じような印象を受けた人は結構居て、「引退セレモニーですら笑いを取ることが出来る清原はさすが上方出身だけある」みたいな皮肉も沢山見受けられた。

あのセレモニーで爆笑した人と、本気で感動した人との違いはまんま、世代の違いだと言えると思います。KK時代の直接世代でない人たちから見れば、あそこは笑うしかない。悪気が無くても笑うしかない。そういう構図だ。

でも笑いから覚め、落ち着いて考えているうちに、プロ世界はやはり非情で厳しいものなのだなぁということが理解できてきた。笑ってはいけなかったのではないかとじくじたる思いにもかられたのです。

僕が小~中学時代の頃、西武ライオンズファンだったので当然清原も大好きな選手の一人であった(特別熱を上げていたのは郭(泰源)と秋山だったが)。あれほど好きだった清原がああいう形でしか選手活動に終止符を打てなかったというのは、考え方によっては実に残酷な話ではないですか。

個人的な印象では巨人移籍以降の清原は全然パッとせず、とても巨額の投資に見合うだけの働きはしていない。巨人オリックスも実は最初から戦力としての清原には興味が無かったのではないかと思ってる。ショービジネスなのだから、何も球団への貢献方法は、ホームランを打ったり三振を取ることだけではないはずだ。経済効果が見込めれば賞味期限の切れたヘタレだって獲るのだろう。それはそれで利口だけれども、清原獲得への投資が、氏のタレントとしての存在価値でペイするしか無いというのは、本人にとってはある意味屈辱的なのではないかと思います。

なんせ、「打ったら拝まれる。三振したらどやされる」という、選手としての結果主義を説いていた当の清原だけに、あのフィナーレは耐え難いものがあったのではないか。そんな気がする。

あと、別の理由として考えられるのが、清原が本気で試合で活躍すると信じて獲得した人々の存在だ。僕は球団運営について何も知らないので想像だけど、仮にも一法人がバカ高い買い物をするのだから、数多くの幹部の同意が必要だろう。おそらく書類につかれたハンコの数も一つや二つではないはずだ。そんな彼らが手がけた獲得劇である。「獲得は失敗だった」という口ざまだけは避けなければいけない。片岡篤史もそうなんだけど、つまりどんなに期待はずれに終わった元・超大物打者でも、「獲得は成功だった」と周囲に印象付けなければ困る人たちが、あのような滑稽なフィナーレを演出したのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。

ファンにも同じことが云えます。自分青春時代球界で華やかに活躍していた清原が、往年すっかり落ちぶれたことを認めたくは無いのでしょう。華やかだった青春時代から一転して、パッとしない日々を送る今の自分清原とがオーバーラップするのではないでしょうか。でも、それでは駄目です。本当のファンならば選手の衰えという現実をしっかりと直視して、それでも尚愛し続ける勇気を持たないと。

今の10~20代なら松坂ダルビッシュといった選手の大ファンという人も多いだろう。だけど、いつかは彼らにも衰えが来ます。打てなくなり、あるいは被弾し情けなくベンチに下がることが多くなるでしょう。そのとき、彼らのみじめな姿をちゃんと見ていてあげてください。世間から注目されなくなり、ひっそりと球界から去っていく彼らを、ファンだけは最後まで見守ってあげるべきなのです。

偽りの労い、偽りの賛歌に彩られた引退セレモニーに声援を贈るような、そんな残酷な仕打ちだけは避けなければいけない。清原和博のような犠牲者をこれ以上増やすべきではないのだ。

("物書きの才能があるのかしら")

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