先月末に放送された、某局の毎年恒例日がな一日テレビが遠回しに言って嫌いである。
面白くないとかマラソン意味ねえとか偽善的だとか、そういった理由はよく挙げられるが、
友人との会話の中で「なぜ嫌いか」の答えにたどり着いた。
先日の放送では、遺伝的要因による皮膚の疾患をもつ子どもたちが取り上げられていて、
当人や家族の苦しみとそれに負けずに明るく生きる子どもの姿が多くの反響を呼んだようだ。
内側で外側で奮闘している人がいることも、
いわゆるテレビの力で弱者救済に一定の成果をあげることも頭では分っていたのだ。
だが映像を見て、彼らの素顔をみて、チャンネル変えようかと思うくらい衝撃を受けた。
彼らを「きもちわるい」と感じるのは許されないと思っているし、
ましてや口に出す人が居たらそいつの良識を疑い「最低」「不謹慎」タグで固定するだろう。
だが実際自分は内心おおいに衝撃を受け、恐怖を感じ、
彼らに寄り添い共に歩む気にはとてもなれなかった。
自分が小学生の時、11歳にもなる同級生たちが図書館にあった被爆者の写真集を見ながら
爆笑していたのを目撃した。
どこが面白いのか訊くと表情だという答えが返ってきたが、
同意できず、その輪には入らなかった。
高校に入学すると、
他校出身の同級生たちが「しんしょ」という単語を
どちらの場面も彼らにとって、何の気なしの悪意なき言動だったかも知れない。
だが自分の中での彼らの評価は大いに下がり、心底嫌悪した。
だからこの番組を見てると
「結局お前は障害者きめぇとふれまわる奴らと同レベルの最低人間だ」、
そう言われた気にさせられる。
過去の同級生たちのように
表出させないだけ余計に姑息で陰湿で偽善なんじゃないかとさえ感じてしまう。
似たような方向性で、毎年毎年
「どこか恵まれない人が周囲の協力と愛情の中で懸命に生きる」を繰り返す。
その度自分への「最低」タグ固定を強いられる。
自分を嫌いにさせられる。
自分内評価の下落を強いる番組なんぞ好きになれるものか。
それが答えだ。
じゃあ見なきゃいいだろ糞がと言われるだろうけど。
便乗して『百舌谷さん逆上する』の感想文を書くぜ。 作中で百舌谷さんは樺島君にすんごい辛らつな言葉を浴びせまくるんだ。これ、凄く面白いんだ。 なんで面白いのかこないだ気付い...
あなたは結局、自分自身が嫌いなのさ。 そこが一番可哀想。