2007-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20071115025238

この二種の区別には同意だが、はたしてモテの側の分割統治といえるのかどうか。

既存の「恋愛」言説のなかでの弱者という意味で両者はともに非モテであり、弱者であるが、これは支配的言説と比べての話であり、この結合はいまの民主党とどっこいどっこいの便宜的なものにすぎないと思う。支配的言説の存在が両者を同等視させているだけである。

ここでは仮に恋愛「からの」自由をもとめるものを「非恋愛主義者」、恋愛「への」自由をもとめるものを「反恋愛主義者」と呼ぼう。

恋愛主義者は恋愛主義そのものを馬鹿にし、支配の存在そのものを戯画化しようともとめる。それは恋愛そのものへの軽蔑と、非恋愛領域の擁護(てっとりばやくいうとオタク趣味の公然化)、さらには非モテネタ化独身貴族への賛美として表れてくる。彼らは恋愛人生にとって最も重大なものであるというテーゼを否定し、それ以外の生き方があることを示している。

一方、反恋愛主義者が求めるのは、自分が認められるような「よりよい」恋愛言説であって、けして恋愛主義が廃棄されることなどではない。たとえば「いい人が評価されない」とか、「こういうタイプモテるべき」とか、「自分が差別されている」といった発言が意味するのは、恋愛主義の「純化」がなされ、適正化すべきだという意見であって、けっして恋愛主義そのものの否定にはなっていない。むしろこうした発言は、恋愛そのものへの信仰が一般人以上に強固なことを示している。

恋愛言説による格差付けそのものからの自由をもとめる非恋愛主義者にたいして、反恋愛主義者たちの求めるのは自分が恋愛言説のなかで適切な位置を得ることだ。しかし、それはかなわぬためにルサンチルマンは怨嗟の声として表れる。

こうした分裂は共通の敵があったからこそ見過ごされてきたに過ぎない。はてな村非モテ言説に支配された今、モテ言説という共通敵を失った両者は分裂していくに違いない。具体的には、自分の趣味生き方恋愛以外の代替肢として提示するものと、恋愛に対する恨みつらみを共有することを望むものとにである。前者後者のこだわりを理解できず、それゆえに後者前者が同じ「非モテ」であることを疑い、空気を読むことを強要しだすのである。

この抗争は革命後のセクト争いに似ているが、セクト争いでは常に急進的な側が勝利していた。はてな村非モテ革命の結果はどうだろう。

記事への反応 -
  • 一言で非モテといっても二種類いる。 ひとつは「恋愛からの自由」(消極的自由)を求めるタイプ(恋愛に興味ないのに恋愛圧力がうざい)、 もうひとつは「恋愛への自由」(積極的自...

    • この二種の区別には同意だが、はたしてモテの側の分割統治といえるのかどうか。 既存の「恋愛」言説のなかでの弱者という意味で両者はともに非モテであり、弱者であるが、これは支...

      • こうした分裂は共通の敵があったからこそ見過ごされてきたに過ぎない。 はてな村が非モテ言説に支配された今、モテ言説という共通敵を失った両者は分裂していくに違いない。 「共...

    • 社会(=モテ)は非モテに無限の劣等感を植え付けると同時に 非モテが一枚岩になって社会に反旗を翻さないように仕組んでいる。 これを虐待と言わずしてなんと言う?

    • 恋愛にまつわる語りを、 「不満を言う人」と「避ける人」ってのはどうしてもわかりあえない気がする。 下の区別なんかはわりと妥当だと思った。 http://anond.hatelabo.jp/20071115025238 僕は「...

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