2007-07-26

自分を許すとか許さないとかで悩むのが無駄だとは言わないけどね……


んー、まあ良いことを言っているとは思うけど、なんか違うのよね。

まず最初に断っておくけど、許すとか肯定するとか言うと価値判断を含んでいる気がするんで、今回のエントリでは「認める」という表現を使っていくよ。

「認める」にもいろんな意味があるけど、できるだけニュートラルなものだと思ってくれ。認めることは許すことではないし、認めることは肯定することでもない。一番近いのは「知る」という言葉かな。これから私が書く「認める」というのは、まあ、そんな感じの意味として受け取ってちょうだい。

じゃ、いこう。


大事なのは「自分を認める」こと。

……とか言うとすごく陳腐だけど、きっとわけがわからなくなっていくだろうから続きを読んでおくれ。

SWAN SONG』の結末近く、あまりにも暗く陰惨な地獄をくぐり抜けたあと、主人公の尼子司はこう呟く。

 「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」と。

 これこそ、『SWAN SONG』一編を貫くテーマである。ひとの一生の価値は、成功したとかしないとか、幸福だとか不幸だとか、そんなことで決まるわけではないということ。

ああ、これがそもそもこれが間違いのもとなのだよ。素晴らしいから認めるというのが。価値があるから認めるというのが。

そうじゃないんだ「認める」ってのは。

素晴らしいとか素晴らしくないとか、価値があるとかないとか、そういう前提が必要だと思ってることが、もう間違っているの。

間違ってる人は、自分を認めるために、

 [1] 醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしい。

 [2] 自分は醜いし愚かだけど、[1]ゆえに自分は素晴らしい。

 [3] 自分は素晴らしいから自分を認める。

こういうステップが必要だと思っている。でもそうじゃない。そもそも「自分は○○ だ か ら 自分を認める」ってのが、間違っているのね。

たとえば上の例は、「綺麗でなければ、賢くなければ自分を認めることができないと思いがちだけど、そうじゃないだろ」って言いたいんだろうけどね。でも、結局のところ「素晴らしいから認める」ことになっちゃってるでしょ。

「綺麗だから認める」・「賢いから認める」っていうのと、「素晴らしいから認める」って、同じなのね。認めるために何か条件が要るという点で、同じなの。これって、「容姿が綺麗」だとか「賢い」とかいう条件を、「素晴らしい」という条件にすりかえただけ。「素晴らしい」ってのは曖昧だからごまかせると思ったんだろうけど、所詮ごまかし。疑いはぬぐえないし。疑うなって言うのも無理がある。無理に信じ込むためにはエネルギーがいる。

「ひとの一生の価値は、成功したとかしないとか、幸福だとか不幸だとか、そんなことで決まるわけではない」というのは、「価値」という表現を使った時点でもう違う。これでは自分の人生を認めることはできない。自分の人生の価値を捏造しなくてはならないから。自分の人生には価値があると信じ込まなくてはならないから。「成功」や「幸福」というのを「価値」にすりかえただけだ。でも、自分の人生を認めるというのは、価値があるから認めるとか、価値がないから認めないとか、そういうことじゃないんだ。

自分を認めるために必要なステップは、

 [0] 自分を認める。

以上。

自分を認めたところで、幸せがやってくるわけでも、どこからともなく価値が生まれるわけでもないんだけどね。でもね、自分を認めるとね、自分を認めることができるんだよ!

言及しているエントリコメントにこんなのがあった。

楽しく生きるのが許されていない人もいますからね。

虐待されてて抜け出せない子供とかに言えませんよ。

確かに、「それでも楽しい人生が送れるよ」と言ってやれない人はいるだろう。でも、「自分を認めることはできるよ」とは言える気がする。気がするだけだけれども。

自分以外の「誰か」から「YES」と言ってもらう事、ありのままの自分を受け入れてもらう事、小さな許しが他人から得られる事、間違ってなどいないと抱きしめてもらう事、そんなものでは無いでしょうか。

子供が母に無償の愛を注がれる事ではじめて自分を肯定する事が出来るように・・・。

だってどんなに自分で自分を抱きしめても、一番空虚を感じる背中のど真ん中に、自分の手は届かないでしょう?

幸福人生にありつくためにはこういうのが必要なんだろうけど。自分を認めるためには要らない。

誰かからYesと言ってもらう必要もないし、誰かにありのままの自分を受け入れてもらう必要もないし、小さな許しを他人から得る必要もないし、間違ってなどいないと抱きしめてもらう必要もない。

もちろん自分でYesと言う必要もないし、自分でありのままの自分を受け入れる必要もないし、小さな許しを自分に与える必要もないし、間違ってなどいないと自分で自分を抱きしめる必要もない。

それでも自分を認めることはできる。

まあ、贅沢を言えば、私で私を認めるのと同じように、他人に私を認めて欲しいとは思うけどね。でも、ありのままの自分を受け入れてもらいたいというのは、過ぎた願いだと思う。

人は一人では生きていけないんだろう。けど、他人に無条件に肯定してもらう必要は、無い。

(ところで「銃夢」のあのシーンって、ザパンの白昼夢じゃなかったっけ?)

こんなエントリはすでに自分を認めている人にとってはあたりまえすぎてつまらんだろうと思ってるんだがどうですか。でも「自分を認めるってなんなんだよ」という疑問がぬぐえない人も当然いるだろう。というか他人が理解できるように書けてないんじゃないかと不安になってきた。というかそもそも私は自分を認めることができているんだろうか自信なくなってきた。

ああそうだ例をあげよう。

たとえばこのエントリが誰にも理解されなかったとして、私はそれを「認める」よ。

様々な可能性がある。誰にも理解されてなかったことを、受け入れたり受け入れなかったり。理解できるように書けなかった自分を、許したり許さなかったり。もっと上手く書けるようになろうという向上心が、湧いたり湧かなかったり。向上心が湧かなかった場合は「まあ難しいテーマだし」と自分を正当化したり、「ダメだな俺」と自分を卑下したり。それでもたくさん反響があったら、自尊心が満足したりしなかったり。反響が全然無かったら、がっかりしたりしなかったり。言葉で伝えることを、あきらめたりあきらめなかったり。

そんなこんなを、したりしなかったり、するんだろうね。でも、何をするにせよ、何をしないにせよ、とにかく、私はそれを「認める」のだ。うん、もちろん、うまく「認める」ことができない可能性もあるんだけど、じゃあ、そのときは、「うまく認めることができなかった自分」を、認めようじゃないか。

もうさあ、許すとか許さないとか肯定するとか否定するとかポジティブとかネガティブとかさあ、べつにいいじゃん。

自分を認めるというのは、自分は自分だということだ。

自分を許そうが許すまいが、自分は自分だ。

自分を許すことができようができまいが、自分は自分だ。

自分を肯定しようが否定しようが、自分は自分だ。

自分を認めようが認めまいが、自分は自分だ。

自分を受け入れようが受け入れまいが、自分は自分だ。

自分が自分であることを諦めようが諦めまいが、自分は自分だ。

自分は自分だろうが自分は自分でなかろうが、自分は自分だ。

自分を認めるというのは、自分を認めるということだ。


結論めいたものは特に無いんだけど、その、あれだ、自分を認めてみてはどうっすか。

なにも変わらんけど。解決しないけど。苦しみは減らないけど。幸せにはなれないけど。

でも、まあ、自分を認めてないために苦しんでいる人は少しは楽になれるかもしれないね。

最後にもう一度、自分を認めるために必要なステップ

 [0] 自分を認める。

以上。お終い。さいなら。よい人生を。

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