2007-03-13

ずっと、ずっと

友人が狂ったらしい。子供が生まれてすぐ旦那に先立たれ、そしてこれ以上ないくらい可愛がってた娘も、先日亡くなったとのことなので、そうなる気持ちもわからなくはないが。彼女の娘の葬式には用事があり行けなかったし、様子も心配なので、見舞いに行くことにした。

精神病院というと、檻がついてるものだと思っていたが、その認識は古かったようで、檻などなく、 また、病院内も普通病院と変わらないようだった。この病院には軽い人が多いのか、そもそも私のイメージ自体が間違っているのかはわからなかったが。エレベーターで3階に上がり、廊下の一番奥にある、彼女入院している個室の前に立つ。最後に会ったのは彼女子供が生まれてすぐの頃だったから、何年ぶりだろう。最後に会った彼女は、元来控えめな性格ではあったが、とても幸せそうに笑っていた。その印象しかない。そんな彼女は今どうなっているのだろうか。深呼吸をして、重苦しい気持ちを押しのけて、少し強めにノックをした。

「はーい、どうぞー。」明るい声で招き入れられた私は彼女を見て驚いた。彼女はあの時の笑顔のままだったのだ。とても幸せそうな、満面の笑みで迎え入れられた私が呆然としていると、彼女は私のことを憶えていたようで、「きーちゃん!久しぶりー!元気にしてた?」と問いかけてきた。私はなんとか気を取り直し、挨拶を交わすと、そのまま思い出話へと突入した。思い出話を嬉々として話す彼女を見ながら私は戸惑っていた。私のことを憶えているし、日常会話もできる。それにどこも狂った様子は見受けられない。彼女は本当に狂っているのだろうか。いや、しかし、彼女が狂っていないとしたら、あの笑顔はおかしいように思える。中学生の頃、飼っていた犬が死んだとき、1ヶ月も塞ぎ込んでいた彼女が、夫もいない中、娘の死を乗り越えられるだろうか。わずか3週間で、このような笑顔ができる程に。疑問に思った私は、おそるおそるそのことについて切り出した。

「あの…遅れちゃったけど…この度はご愁傷様でした…」

「え?何それ?」

「え?だって…娘さんが…?」

「娘?きーちゃん何言ってんの?結婚もまだなのに子供ができるわけないじゃない。」

頭を下げている私をよそに、彼女はおかしそうに笑っている。

「え…あ、うん…」

未だ事態が飲み込めずおろおろしている私を見て彼女は更に笑う。

「それに私たちまだ19だよ?結婚にはまだ早いでしょ。」

―― あ、そうか。そういうことか。そういえば、思い出話ばかりをしていて気がつかなかったが、彼女は昔の話ばかりをしていた。てっきり、今の話は辛いから思い出したくないのかと思っていたけど、思い出したくないのではなく、純粋に思い出せなかったのだ。だって、彼女は、私と同級生だった彼女は、私と同じ26歳ではなく、19歳に戻ってしまったんだろうから。

その後は、また思い出話をして帰った。病室を出るときに彼女母親と会い、やはり彼女が19歳の頃に戻った、戻ったと思いこんでいることを知らされた。辛いことがなかった時代に、辛いことが起こる前に戻ることで、耐えきれなかった辛いことから逃れたんだろう。愛する夫と、子供が死んでしまった今という時から。歩き慣れた帰り道を行きながら彼女のことを思い出す。私のことも憶えていたし、日常会話にも何の問題もなかった彼女。しかし、本当の彼女とは会話できている気がまるでしなかった。今という時にいない、今という時を生きていない彼女との会話はどこか虚ろで、まるで幻と話しているようだった。でも、考えてみれば本当の誰かと話している、生きているだなんて考え自体がそもそも間違っているのかもしれない。誰しも本当の心になんて触れられやしないんだから。そんなことを考えていると家に着いた。

「おかーさん!」

娘の愛華が飛びついてくる。

「おかえりー!」

「ただいま、愛華。」

愛華は私を見上げて首を傾げる。

「どうしたの?」

「おかーさんげんきない?」

娘に心配させまいと、そんなことないよと笑顔を作ってみたが、効果はなかった。

「おかーさん。ちょっとしゃがんで。」

「え?」

「いいから、しゃがんでー。」

言われた通りにしゃがみ、愛華と同じ目の高さになる。きらきらと輝きながらも心配の色を浮かべている目を見ていると、

「めもつぶってー!」

と言われたので、わかったわよ、と目をつぶる。何をするつもりだろうと考えていると、頭を撫でられる。

「げんきないのないの飛んでいけー。」

私がぽかんとしていると、

「げんきでた?」

笑顔で聞いてきたので、うん…元気でたよ、と愛華を思い切り抱きしめた。確かに娘を失ったらとても辛いだろう。でも、私は昔には戻りたくない。たとえ辛い思いがなくなるとしても、娘と生きているというのが本当は幻だったとしても、戻りたくはない。娘がいなくなってしまったとしても、その未来をしっかり生きたいと思う。少なくとも私にはこの幻は本当なんだから。だから、その娘と本当に生きている今の先にある未来を。

いたい、いたいよー、おかーさん、と言われて抱きしめる力が入りすぎていたのを知り、ごめんね、と謝り手を離す。じゃあ、一緒にご飯を作ろうかと話していると、夫が帰ってきた。浮かない顔をしていたので、娘と顔を見合わせて、二人で笑った。

誰かが元気のないときは、誰かに元気ないのを飛ばして貰おう。そして、誰かがいなくなってしまっても、その人といた今のために、挫けずその時を生きていこう。そうやって私は愛する家族と生きていこう。ずっと一緒に。ずっと、ずっと。

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