お昼寝してたからそのままにしていた。
こっちは暇で。寝顔見てるのにも飽きてきて。
仕方ないから夕食の準備をしてた。もしかしたら物音で起きるかも?という淡い期待を持っていたんだが。
全く起きやしない。
どうしても買い物に出なきゃいけなかったから起こしたら
「いってらっしゃい」とだけ言って再度眠りに入った。
買い物から帰ったら起きてたけど…
結局2時間寝てた。
久しぶりの休みで睡眠不足だったっていうならわかるけど、そうじゃないし、
もっとかまって欲しいと思うのは女の我侭なのかなぁ。
人は常に後ろ向きの力に引っ張られている。
「何もしなければ何も起こらない」という理屈があってもいいと思うのだが。
しかし人は、何もしなければ緩やかに死んでいく。
生きるためには食事が必要だ。食事をするためには金が必要だ。
金を稼ぐためには「何かをしなければならない」。
泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように。
だが、使いきれないほどの金があれば。
それは絶対的な安心感をもたらす。
「何かをしなければならない」という焦燥感とおさらばできる。
読書をしているとき、増田を見ているとき、こうやって文章を書いているとき。
俺はどうしようもなく焦燥に駆られる。
こんなことをしていていいのか。
何かをしなければならないのではないか、って。
その焦燥を感じなくなれば。
そのときは心の底から読書を楽しめると思うんだ。
だから本を買うんだよ。
Aという友人を選ぶかBという友人を選ぶか。
AちゃんとつきあうかBちゃんとつきあうか。
A社を受けるかB社を受けるか。
……
「決定的な選択」なんて幾らでもあるだろう。「分かれてなければ…」なんてやっぱり違うと思う。
オイラも学生に一言
「選んだ後で泣き言言うような人生を送るな」
ルールは破るためにあるが、人は守るためにある。
つまり「ルールを破って怒られろ」。
両方の良いところを…なんてそんなウマイ話、あるわけない。
なぜこの二つに分けなければならないのだろう。便宜上?各々の特性を生かすため?世の中の全ての事象がこの二つのカテゴリに振り分けられるの?
ここで一人の平凡な人間Sを紹介しよう。Sは可も無く不可もなく、いわゆる「普通に」勉強が出来る人間だった。小学校でも真ん中、中学校でも真ん中。高校へは中学校で培った内申で進学した。
高校でも普通の生活を送っていたが二年にあがるとき、あるひとつの選択を迫られる。学年で「リケイ」と「ブンケイ」に分けられるからだ。
Sは悩んだ。リケイへは数学や物理が得意な人が行き、ブンケイには国語や英語が得意な人が行くらしい。実はこの時点でSは数学や物理が苦手になっていた。国語や英語はどちらかといえば好きなほうだったし、本を読むのは好きだったので、自分はブンケイかな、とも思ったが、Sの友人は皆「リケイ」に行くという。また「リケイ」は頭が良くて「ブンケイ」は頭が悪い、という雰囲気が学校であったので、ここでブンケイに行ったら負けかなと思ってる、と考え、まあいいやリケイで、と決めてしまった。
案の定リケイ科目が出来ないSはクラスの底辺の成績となり、大学進学を決めたものの今更ブンケイの学部を受けるわけにも行かず、三流公立大学の工学部へ進学した。
大学でも成績が伸びるわけもなく、テーマパークと化した大学で遊んで暮らす。そのツケは当然回ってくるわけで、就職先も決まらず、ぎりぎりになって五流中小企業へ。
とまあなんともありがちなスパイラルに陥ったSなわけです。あの時ブンケイに進んでいれば未来が明るかったのかというと、そもそものダメ人間なので明るかっただろうとはいえませんが、リケイを選ぶべきではなかったと思います。
悪いのはSであってリケイブンケイの分類ではないのですが、分けてなければな、とも思ってしまうわけです。
一番言いたいのは、これを読んでいる学生がいたら、早く自分の適性を見つけないと大変なことになるよ、と言う事。
ふたりはプリキュアSplashStarが最終回を迎えた。
シリーズ自体は「Yes!プリキュア5」という続編によって粛々と続いていく。だが、これはプリキュアの続編ではあっても「ふたりはプリキュア」の続編ではない。
実際には、「??MaxHeart」ではシャイニールミナス、「??SplashStar」では満と薫というプリキュアの共闘者が存在したが、彼女たちはあくまでも道を同じくするものであり、プリキュアでは無い。
プリキュアの基本フォーマットは3年間一定していた。静と動、理と情、白と黒、対なる要素のものが手を合わせることで完全になる。これは戦隊ものとよばれるジャンルと同じテーマだが、人数を2人に絞り込むことで両者の関係性とその描写はより深くなる。ある種の趣向を持つ人にはそれが己の妄想をかき立てる方向へと作用したようだが、実際のところプリキュアの2人の関係性はそう言った段階の斜め上へ行っていると思う(納得のいかない百合厨は雪空のともだちを借りて10回観ろ)。むしろ近いのはウルトラマンエースの初期における2人の変身者(北斗と南)だろう。テーマの本質を考えればプリキュアも男女2人組であるべきだと思うが、その辺は大人の事情と時代というものなのだろうか。
もう一つは、未来と若さの楽観的全肯定である。基本的にプリキュアの敵は年齢不詳ながら彼女たちよりも年長者であり(従って、同世代の敵であるキリヤ、満・薫、ひかるなどは通常の敵とは異なったストーリーが与えられた)、その理屈はむしろプリキュアのそれよりある面で筋が通っている。そしてSplashStar最終回においてボスの真の目的が宇宙を創世以前の無に返すことであると彼の口から語られた通り、敵の目的は本質的に過去への回帰、そして永続化である。それに対して彼女たちは「絶対に」抵抗する。このキーワードは3年間を通じて登場しており(SplashStarにおいてはやや乱用された感があるものの)、プリキュアを象徴するキーワードの一つと言っていい。そもそもが「絶対」という言葉自体が若さ、無思慮の象徴のようなもので(絶対なんてことがあると思っていられるのは若さ故である、というのを否定出来るのは若者だけだ)、事実彼女たちが「絶対に」に続けて発するのは理屈の通らない、ある種のわがままである。しかし、このキーワードに呼応するかのごとく超常的なパワーが発生してプリキュアが勝利を収めるのがプリキュアの世界の「お約束」になっている。
もちろん、これはプリキュアが子ども向け番組である、ということが主原因であるといえる。だが、子ども向けだからといって、いや子ども向けだからこそ正しく世界のあり方(すなわち、全てが思う通りにはいかない、未来より美しい過去はある、つまるところ「絶対」は無い)を伝えるべきではないだろうか。そして、そんなことは長らく子ども番組に携わってきたスタッフには承知のことだろうと思う。では、何故彼らはあえて「子どもの理屈」を全肯定するような作品を作ったのか。
現在の世の中は子どもが子どもの理屈を大らかに信奉できる状況とは言いがたい。本来ならゆるやかに「現実」を知って大人になっていく子どもたちが、無理やりに現実を見せ付けられて否応なしに大人にされていく時代だ。それはフィクションの世界においても大差なく、少年向けとされているジャンルの作品さえもが主人公が自身の存在に苦悩し、大人の理屈に屈することが少なくない。そんな中で、プリキュアの健康的なまでの屈託の無さは貴重だった(このあたり、比較されることの多いセーラームーンシリーズとは一線を画していると思う)。もちろん、「現実」を直視しなくて良いわけではない。だけど、その前に夢を見てもよいのではないか。プリキュアが3年間繰り返してきたのは、子どもが夢を見るきっかけを与えてあげることだったのではないか。
一つ目の対比と強調のフォーマットは、より戦隊に近く多層的なものになっていくだろう。そして二つ目の子どもに夢を与えるというテーマが、どのように引き継がれるか(あるいは引き継がれないか)はもはや本放送が始まるまで分からない。なんにせよ、Yes!プリキュア5をふたりはプリキュアの続編、として見てしまうことは両方の作品にとって不幸なことのように思える。新しい日曜朝のアニメ番組として、落ち着いて鑑賞したい。
http://www.popxpop.com/archives/2007/01/10_2.html
種明かしするアホと、それをかき集めてアクセスとアドセンスで小銭を稼ぐ卑怯者。
恥を知れ。
街中を歩いていると、どんな時間帯であっても女子高生の姿が目に付く。
学校はどうした? こんな夜遅くに何をしている?
そんな時間であっても平気でうろついている。
いわゆるDQNならば納得は行く。が、普通の真面目そうな女子高生がいつでもいるのだ。
学校をさぼっているのか、夜遊びをしているのか。これはDQNの理由。
体調が悪いか、夜まで予備校で勉強しているか。正当の事由があるか。これは真面目の理由ってとこだ。
しかしながら、見た目だけではDQNか真面目かは判定できない。
DQN風の天才女子高生もいるだろうし、真面目でかわいい顔してババンバンな女子高生だっている。
言ってみれば異常な時間帯に街中をうろつく女子高生の状態は、DQNか真面目かの重なり合わせとして表現できる。
確認するには、本人に尋ねるしかない。
どうも、自分が参加すると、仕事でもサークルでも何でも「ぱっとしなくなる」「運営がうまくいかなくなる」「駄目になる」という気が昔からしてるのね。
別にネガティブな活動をするわけじゃないんだけど、なんとなく、ね。運気が落ちるというか。
こうして俺がはてな匿名ダイアリーに書き込むようになって三日目だけど、そのせいで増田が伸び悩んだらごめんね。先に謝っとく。
「死にてぇぇぇ!!!」ってただ叫んでるだけなのは匿名でもあんまり書けないじゃん。
いや、さっき書いたんだけどさ、すぐ消した。
バレたら嫌だ、とかじゃなくって。
他の人がそれを読んで、ただ不快になるだけなのが申し訳ない。
同じ愚痴でも、もうちょい文章になってるほうがいい。
ただ衝動を垂れ流すだけじゃなくってさ。
自己満足だけどさ。
はぁ、なんだろうね。
なんでこんな気ぃ使ってんだろ、俺。
絶対するもんかと思っていた「日記の公開は友人まで」の制限をかけた。
ここまでして何でmixiをしなきゃならんのだ!と思いつつ、しかたないからやっている自分。
あほらし。
はてダとここは唯一自分の本音が書ける場所。
自分ワンダーランド!
今、とても苦しい。
恋愛において、ベタベタしたいかしたくないかについて話をした。
自分は「相手が自分にとってかけがえのない居場所となってくれている」という実感が持てさえすればそれほどベタベタしたくない、けれどその実感が持てるまではベタベタしたい方なんだけど、相手にはその感覚は理解できなかったらしい。どんな具合にピンと来なかったのか本当は聞きたいのだけれど、もうその人自体との縁は途切れてしまったので、直接聞くことができない。
ふだん恋人や家族や、親しい人と居心地のいい関係を築いていればいるほど、そうでない外の風にふれたとき、温暖差がことのほかきつく感じられるんじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20070129022310
元の文の主旨とはずれた方向への感想で申し訳ないのだけれど、この一文を読んで、かつて彼氏の家に転がり込んでどんどん他の友達とは会わなくなっていった女の子のことを思い出した。それはどこか不健全に見えていたんだけど当時は何も言えなかった。
ここからは自分の話。初めての恋人と付き合って半年で同棲に踏み切った。相手が引越ししようかななんて言い出して、ちょうど自分が就職で恋人の家の近くに引っ越そうと思っていたところにそれが重なったから持ちかけてみた。理由はいろいろくっつけたけれど、本当は自分の居場所と呼べるものを恋人の中に確立したかっただけなんだと思う。
二人とも頑固だったので、一緒に生活なんてしてみればなおのこと喧嘩が絶えなかった。その上いつもどっちかが折れる形でしかおさまりがつかず、大抵は我慢強い恋人の方が折れていた。お互いに納得の行く第三の道なんて考えもせず、どちらかがどちらかを正しいとか間違っているとか決めていた。別れ話が上がるたびに、相手を好きだからというよりは居場所を失うのがイヤでさんざんごねた。「自分たちは合っていないのだ」という判断を行うことがなかなかできなかった。結局、同棲生活は1年で破綻した。
自分が存在承認を恋人にだけ求め、ベタベタしすぎたことが別れの原因になったと思っていた。けれどこんなこともあった。仲間と飲みに行くとき二人一緒に出かけて、あまり酒を飲まない恋人がそういう場となると普段とは一転して一緒にいたがるので、自分は少しだけそれをイヤだなと思っていたのだ。「みんなで飲んでるんだからみんなと話そうよ」と言ったけれどその時の恋人は言葉もなくしょんぼりしていたような記憶がある。そういう時だけさみしがる恋人にせよそういう時は恋人を放っておく自分にせよ、ほんとにお互い自分の都合しか見えていなかったんだろうな、それがいけなかったのかな、とも思う。
信頼している相手に甘えるのは簡単だけれど、甘えられたときに応えるためには自分に余裕がなくてはできない。余裕がないときにも相手を尊重させてくれるのが「相手がかけがえのない居場所となってくれている」という実感なのじゃないかと自分は思っている。それが生まれるためにはやはり時間と経験を共に重ねる必要があるだろう、とも。
こんな風に経験を交えて話せば、もしかしたらあのひとも理解してくれただろうか?
カネの方言らしいよ
とっくの昔に死んでる。